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2020年10月05日13:47

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「日没」桐野夏生(岩波書店)

「ヘイトスピーチは作品ではない。私が言ってるのは、作家が責任を持って表わす作品のことだよ。虚構のことだよ。虚構はいろんな人間を描く。その中には差別的な人間もいれば、そうでない人間もいる。だって、それが人間社会じゃない。ありとあらゆる人の苦しみを描くのが小説家なんだから、綺麗事だけじゃないよ。差別が目的のヘイトスピーチと混同するなって」(295頁より)


小説家・マッツ夢井は、過激な性描写もいとわない作家。彼女のもとに「文化文芸倫理向上委員会」なる政府組織から、1通の召喚状が届く。
マッツの周囲ではすでに、作家仲間が突然亡くなったり、愛猫も姿を消したりと不穏な空気が漂い始めていた。
有無を言わせないような召喚状の内容に不安を抱きつつ、指定先の駅に向かうと、彼女が連れて行かれたのは海辺の断崖に立つ「療養所」。
そこで彼女は「B98」という記号で呼ばれることになり、ほとんど自由のない、囚人のような生活を送らされることに。
これでは刑務所と同じではないか! わたしが何をしたと言うのだ!
あまりの理不尽さを訴えるたびに「減点です。減点数が増えれば、滞在が伸びますよ」と所長たちに脅された。
「夢井センセイの小説に出てくるレイプのシーンが不愉快だと、読者から訴えがあったんですよ」「あれはレイプを推奨しているわけじゃない。それぐらい読めばわかるでしょう」。しかし所長には話が全く通じない。
そして更生のため「社会に適応した美しい小説」を書け、と命じられのだったー。


いやぁー、出版前から話題になっていた桐野氏の新刊だけど、これは怖い小説だよ(;゚Д゚)
折しも日本学術会議の新会員6人を、政府が任命しなかったというニュースもあいまって、「日没」が絵空事とも思えない。
近未来小説かと思って読み始めたけど、これはまさに「現在」を映した物語なのだ。

「先生の作品が下品なんです」
「じゃ、いったい何が上品なんですか。上品な小説って何ですか。また、それもニーズを公募するんですか。私は作家なんですよ。人の職業を侮るのも、いい加減にしてください。」(65頁)。

「小説は、正しい、正しくないじゃないんです。出来事をそのまま書くだけで、その出来事を審判するものではない。だって、真実は、あなたの言う正しさとは違うところにあるんですよ。それは読者にも伝わるはずです。」(66頁)

怒りにふるえるマッツは、なんとかこの「療養所」での暮らしを乗り切るために、自分と同業者の作家がいるのではないかと探りつつ、ここから出られる見通しがあるのか考えあぐねる。
そして半ばヤケクソになりつつ、所長らの言う「美しい物語」を書きつけてみるのだったが、その物語は途中からあらぬ方向へー。

この小説、いきなり召喚状1枚で刑務所のようなところで監禁される、というシチュエーションももちろん怖いけど、桐野氏の筆致が冴えるのは、その後のマッツの精神のこわれようだ。
マッツは療養所でひどい拷問を受けたわけではないのだが、これからどうなるかわからない不安に次第にがんじがらめになり、どこに監視カメラがあるとも知れず、親切そうに見えた療養所の職員も、政府の手の者かもしれず、こころがどんどん折れていく。

何より、所長も、たまに来る女医も、彼女と話が全く通じない。彼らは文学の本質そのものをなにも理解していないのだ。
そして、「いい小説を書いて更生すればここを出られる」という話自体が嘘なのではないかという疑念。
入所者と偶然話ができたマッツは、何人もが絶望して、断崖から身を投げたのだ、と聞かされる。しかし、その話の真偽もわからない。

不安や絶望が究極まで行くと、人の精神はもろくも崩れてしまう、というのがあまりにリアルで、桐野氏は、どこかの国の収容所の体験者から話を聞いたのか?とさえ思わせる。
作家としての矜持はどこまで保てるのか・・療養所から出られないかもしれない、という絶望の果て、彼女は、拘束衣を着せられ、地下の部屋に連れて行かれてしまう。

たとえば我々は北朝鮮のような国を見ると、「なんであんな体制に甘んじてるんだろう?一斉蜂起して金一族を倒せばいいのに」と簡単に思ってしまう。
しかし、「人の心を殺すには刃物は要らない」のだ。
巧妙に、不条理に、死んでしまいたいような感情を持つ状況に仕向けることだってできる。

マッツ夢井の言葉は、まるで文芸界の現在地のようだ。

「大手出版社の文芸局長や部長、編集長の視線は常に、私たちの少し背後を見ている。要するに、彼らが見ているのは作家ではなく、作家の背後にあるマーケットの大小なのだ。かつて出版社は、良質な作品を書く作家を大事にした。それからしばらくは、作品の質は脇に置いて、売れる作家を優先的に遇した。だが最近は売れて、かつ正しいことを書く作家ばかりに仕事を頼む傾向にある。
私はようやくヘイトスピーチと小説とが、同レベルでとらえられるようになったという事実に辿り着いて愕然とした。これは同じ「表現物」として公平に見せかけた、国家権力の嫌がらせだ」(70−71頁)。

「日没」が、いわゆる一般文芸誌やエンタメ小説誌ではなく、お堅い岩波書店の「文学」という雑誌に連載され始めたのも、こういう文芸出版ギョーカイへの批判がちりばめられていたゆえか?(ちなみに「文学」は2016年に休刊と言う名の廃刊に)。
ひきつづき連載されたのは、同じ岩波の「世界」という媒体だったのも、むべなるかな。

この小説と似たことが、近い将来起こらないとも限らない。
わたしなど「アマゾン」の購入履歴から「くだらない本ばかり読んでるんですねえ。精神を矯正しましょう」と召喚状が来たりして( ;∀;)
マッツ夢井が必死で格闘したように、桐野氏自身も作家と言うプライドを賭けて、この物語を世に問うているのだと思う。
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