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2019年12月19日11:05

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「増補版 ペシャワールにて」中村哲(石風社)

12月4日、凶弾に斃れた中村哲さんの、最初の著作。

1987年の暮れ、アルバイト先の出版社で「お医者さんの書いた、これから出す本です」とゲラ刷りを渡され、内容に引き込まれて読んだことを、今でもありありと思い出す。

中村さんは「医師でありながら、井戸を掘り、用水路を作ったアフガニスタンの恩人」として、広く知られていたが、当初はアフガン国境のパキスタンに、ハンセン病治療のプロジェクトの一環で派遣されていたのだった。

わたしも校正を手伝った「ペシャワールにて」は、1987年ごろまでのそこでの奮闘の記録だったが、その後、かの地域は湾岸戦争の勃発でさらに混迷を増す。
90年代に入ってからの現地事情も加え、「増補版」として数年後に改めて出版された。

久しぶりに読み返すと、ひとつひとつの言葉が重い。
パキスタンのペシャワールでは、ふんだんな薬や医療器具もない状況下での治療にも苦慮するが、それ以前に、ヨーロッパからのさまざまな支援団体との軋轢や治療方針の違い、キリスト教団体のイスラム教の住民たちの心を逆なでするような行為とも、格闘せねばならなかった。
中村医師はアジア的「根回し」「腹芸」で、現地スタッフを動かしていくが、なかなかこれは欧米人には理解されにくい。
治安の悪い現地では、頻繁に爆弾テロも起きた。
中村医師はしかしながら家族も呼び寄せ、お子さんもパキスタンで育つ(たぶん、ニュースで、柩に付き添ってらしたお嬢さんだと思うが、“長女は日本語よりパシュトー語や英語のほうをしゃべるようになってしまった”という記述もあった)。

ペシャワールでは、ソ連のアフガン侵攻(1979年)以降、大量のアフガン難民が流入していた。かつてロシアやイギリスの支配を受け、勝手に国境線を引かれた国の苦悩を思い、そして日本なら安価で買える薬さえ入手できず、亡くなる人々を見て、中村医師は「同じ命なのにこの不条理は何なのだ」という義憤をいだく。
それが、その後の彼のすべての行動を動かしたのだと思う。


「私はよく、『ペシャワールのような危険なところで・・・』と感心されたり逆に変に思われたりする。しかし、愛憎も苦楽も悲しみも喜びも、ここでは手ごたえのしっかりした人間と神がいることを幸せに思っている。」(110頁)


中村医師はハンセン病治療のプロジェクトをUNHCR(国連難民高等弁務官)に働きかけ、ボランタリー協議会で発表するように連絡を受ける。
1986年1月に協議会で発表し協力を呼びかけると、多大の反響を呼んだものの、各医療団体は「それくらいはすでに自分のところでもやっている」と主張し始め、自己宣伝の応酬に終始、逆にこの問題提起をネタにしていくつかの組織がUNHCRに新たな予算要求をしたとも聞いて、中村医師は失望する。

教宣の道具などではない、ほんとうに現地の困窮している人に届く医療支援を、共感してくれる民間のサポートで実現する、という信念が、その後の彼の活動に広がりにつながったのだろう。


「現地は外国人の活躍場所や情熱のはけ口でもない。文字通り共に生きる協力現場である。まして『教えてやる』というのは論外である。」(256頁)。


中村医師は優れたオーガナイザーであり、先駆者で、行動の人だった。
イスラム教の地域で長く支援をしてきたが、彼はキリスト者。
あの行動にはキリスト者としての宗派を超えた人類愛と、火野葦平の甥御さんという義侠心の血脈があったのだと思う。


「アフガニスタンの人々は一般に日本びいきである。日本が余りに遠すぎてファンタジーしか湧かないのである。我々が中央アジアの血なまぐさい歴史を忘れて、シルク・ロードに夢を馳せるようなものである。殊にイスラムの伝承には『東方からある民が起きて救いが来る』というものがある。宿敵ロシア、英米とかつて激しく干戈を交え、今また猛烈な生産力で欧米の没落に一役買っている日本が、この東方の民と二重映しに見えるのだろう。」(117頁より)。

今にして思えば、言い伝えは、真実だった、とも言える。
中村哲さんはまさに「東方から来た救世主」だったのだ。
そして失ったものの大きさが、ただただ、悲しい。
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