常連のヴァイオリニスト、2回目の篠笛奏者、ピアニストのご参加でした。
今回のメインはやはり口元、顎の無意識の緊張の話。
戌年だからか、最近、自分でも驚くくらい、犬の鳴き真似が上手くなった。
私達は、何を考えるにしても、脳を使って言葉で考える。
楽譜を読んでソルフェージュする時も「ドレミ」と脳の中で唱えている。
これが様々な自然本来の身体の動きに大きな制約をかけていた、ということが、このピュシス奏法になってから身に沁みるようになってきたのでした。
目下、私にとって、フルートで音を出す、という動作は、吹くでもなければ、歌うでもない。
「吠える」というのが一番近い。
ウィーン少年合唱団では動物の鳴き真似をしてから発声練習を始める、と小耳にはさんだことがあるけれど、真偽の程は定かではない。
でも、一度、とても不自然な生き物である「人間」であることを放棄してみてから、何かをする、というのは、どんな場合でもとても良いやり方ではないかと思います。
皆様、目をシロクロしつつ、犬の鳴き真似から。
お互い恥じらいもあるので、最初は、まだまだ人間でしたが、「屏風座り」や「鏡」、そしてヒモの鎖など使って遊んでいるうちに、どんどんと良い感じとなり、楽器の種類に関係なく、大きな変化、進化をもたらすことができました。
あと、ようやく自分の奏法で使うようになってきた「混ぜるな危険」も。
いや、正確には「混ぜちゃおう!(危険じゃないから)」と言うべきか。
この技術を邪魔するのは、「自力」での力み。
ゆだねられるだけ、ゆだねて身体同志の反応に任せられた時に発するエネルギーは特に高音域や大きな音を出す時に便利。
これが上手くいかない場合の原因はフォルテやクレッシェンドや高い音の表記に惑わされたベタな実感に伴う力みである。こいつがブロックをかけてしまうと、どんな動きも混ざらない。
なので、個別に表層の筋肉でがんばるしかなくなってしまうのだろう。
そうしてがんばっている辛そうな他者の実感にも人は共感する心温かな生き物なので、こうしたやり方を好む場合もあるのは理解できるけれど、私の趣味ではない。
「必死に額に汗して、という藝術はみな似非ですよ。」
というやや過激な言葉を、初めての音楽家講座の打ち上げの席で甲野先生が仰っていたのが昨日のことの様に思い出されます。
改めて検証が進んだ良いひと時となりました。
ご参加くださった皆様ありがとうございました。
去年は「猫に学ぶフルート」だったけれど、今年は「犬に学ぶフルート」
どうぞ鳴き真似にいそしんでみてくださいませ!
コツは「ワン」とか「バウ」とか思わないこと。
こんな話をしたらどなたかが
「考えるな、感じろ!(@ブルースリー?)ですね!」
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