「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」(ローマ4:21−22)
彼とはアブラハムを指す。神はアブラハムの生涯を用いて、神学的な難しい論議を避けて信仰とは何かを一般民衆に教えている。
聖書には義人はいないとはっきり書かれている。それならこの世に救われる人はひとりもいるはずがない。人に賞賛されるような行いをし続ければ神は喜ばれるだろう。しかしそれでは努力の差による序列を付ける結果になってしまい神の本質に逆らう結果になってしまう。神の目に誰かが一番で、別の誰かがどん尻だと優劣を付けることはありえない。この人よりもあの人の方がましだと言う比較もない。神は私があなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出すと宣言されている。造られた者の間にいかなる点においても神のえこひいきはありえない。
義人とは神の目に正しい者と見られることに他ならない。神にとって能力や富や権力は
人を量るはかりにはならない。地上で最も強大な者でも、神の国で最も小さいものを秀ではしないと言われるがごとくなのだ。
アブラハムはどんな条件で義人とされたのだろう。神が約束されたことはどんな困難な状況にあっても、不可能に見えても、必ず神の時が来れば成就すると信じる信仰によって義人とされた。神の目に正しい者とは信仰を持つ者だと言う事になる。
人は例外なく罪を持っている。その罪は自分の努力では拭い去れない。善行を重ねても犯してしまった悪事が消えてなかったことにはできない。神はその罪を決して見逃してはくれない。だから、身代わりのキリストを世に降されて十字架の上でむごたらしい死の罰を与えて、すべての人を救い出す計画を立てられた。
このキリストの命が自分を救い出す身代わりとして死なれたと信じる時に私たちは神の目に義人と認められる。実に信じがたい遠大な計画だ。信じればキリストの御霊がどんな時にも共にいて、正しい道に導いてくださる。
世の中、いろんな意味で乱れている。いつ大地震が起こっても、ミサイルが飛んできても不思議でもない状況だ。そうならないよう願うが、僕は至って平安を保っている。死ぬ時は死ぬのだから。そして、「私にとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と永遠の命を約束してくださったキリストにすべてを委ねて、毎日を穏やかに歩んで行きたい。
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