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2017年02月05日09:20

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練られて強くなる信仰


「そこで、この人たちは、上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれた。王の命令がきびしく、炉がはなはだ熱かったので、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来た者たちは、その火炎に焼き殺された。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。」(ダニエル 3:21-23)

ネブカデネザル王は全国民に黄金の像の前でひれ伏して拝めと命じた。ところがユダヤ人である3人は「たとえどんなに脅されても唯一の真の神以外のものを拝めない。そのためにどんな窮地に陥ろうと全能の神が必ず救い出してくださる」と言って拒んだ顛末として冒頭の聖書箇所に繋がっている。

3人を炉に入れようとした王に仕える役人はあまりの高熱のために炉に近付いただけで焼き殺されてしまった。すると誰が3人を炉に入れたのだろうか?3人とも自らの意思で逃げもせずに炉の中に入って行ったと言う事になる。これは信仰に対するとてつもない挑戦とも言える。キリスト教には他の神々に対しては偽物と断言し、偶像を拝むことを禁じている。そのために迫害され続けて来た。殉教は昔の話と思う人もいるかもしれないが、実際は去年一年間だけで300人以上の殉教者が報告されている。今日、日本のクリスチャンが信仰のゆえに暴力的な迫害を受けることはまずない。それは神の恵み以外のなにものでもない。信仰的に熟していない日本で迫害が強まれば福音宣教の実を得られないからだ。

さて、3人は炉に入ったが、その心には全能の神に不可能なことはなく、必ず救い出してもらえると言う確信があった。そしてもし命を落とすとしても、神の計画は別の所にあっただけで、自分の命はそのために用いられたと信じる強い信仰に燃えていたようだ。ここまで来ると神を信じるのはそれほどの危険を覚悟しなければいけないのかと不安に思う人も多いだろう。言える事は、信仰には少なからず試練はあると言う事、そして命を懸けるほどの試練を負わされる人は少ないはずだ。それは背負い切れない荷を負わされないからだ。主はあれをしろ、これをしろと人に押し付けて、自分は昼寝をしているような方ではない。各人負うべき試練はあるが、それぞれの信仰のサイズに合わせた試みだということだ。神の試練は人を成長させるためで、人を潰して弱者と強者を振り分けるものではない。

高熱の炉に入るような試練にあわされないことを感謝しよう。しかしもし、世の波に応じて浮き沈みしている信仰だと自分で感じたら、痛みを覚悟して神に従ってみよう。祈り求める時に神は必ず加勢してくださる。





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