河出書房新社の池澤夏樹責任編集・日本文学全集の第二期発刊が完結。
それを記念してのトークイベントが、築地の浜離宮朝日ホールで開催。
第1部は、それぞれが現代語訳を担当した酒井順子氏(「枕草子」)、高橋源一郎氏(「方丈記」)、内田樹氏(「徒然草」)の三者による鼎談。
第2部は、編集の池澤夏樹氏と「平家物語」の現代語訳を担当の古川日出男氏の対談です。
http://www.kawade.co.jp/news/2016/10/1221.html
友人からこのイベントを聞き、なかなかこれだけの作家陣のお話を聞ける機会もないので、思い切って申し込んで上京しました。
例によって、講演の撮影・録音は不可だったため、お話を聞きながら書き取った、わたしの手元のノートを元に書き起こしています。
そのため、聞き洩らしや前後の話がうまくつながらない箇所もありますので、以下お読みになる方はご了承ください。
第1部 18:30〜19:30
「枕草子・方丈記・徒然草、エッセーの始まり」
酒井順子×高橋源一郎×内田樹
<高橋> 三人で話すとなるとむずかしいので、僕が司会をやります。
最初にどんな経緯で訳すことになって、訳し終わってどういう感じですか?
内田さんはフランス文学の訳はやっていますが。
<内田>池澤さんのご指名です。
なぜ僕に? と思いましたが、レヴィナスなんか体をきしませながら翻訳するというのは長くやっていて、息遣いなどに同調して訳す、ということには慣れているので、そういう身体性に着目したんでしょうか。
訳してみると、吉田兼好は僕と似た人だった(笑)。
<高橋>徒然草には興味があったんですか?
<内田>特になかったです。でも僕はオープンマインドだから、なんでも来なさいと。
<高橋>訳し終わっては?
<内田>兼好はヤな奴だけど、葛藤しているところなんかには、フレンドリーな気持ちになれた。
<高橋>酒井さんにも同じ質問を。
<酒井>興味はあったんですよ。「枕草子 リミックス」なんて本を書いてますから。
橋本治さんの「桃尻語訳」を読んでましたし、女性は特に平安文学となじみやすいと思います。
白洲正子さんも清少納言は友だちのようだ、とおっしゃってる。
でも、現代語訳はこんなに大変だったとは・・・今まで翻訳家のかたのご苦労を知らなかった(笑)。
<高橋>僕は早い段階で話があって、じゃあ、好きなのやっていい? やっぱり、短いやつを、と(笑)。
でも「方丈記」はけっこう好き。ちょっと変わった作品だな、と。
震災、火事などの天変地異が書かれてるんだけど。
堀田善衛さんも「方丈記私記」を書いてるし、宮崎駿さんも、これをもとにアニメ化しようという話があったんですね。
古典は古典で読むべき、現代語訳は必要ない、という人もいますけどね。
古典の著者は現代人じゃない、それを訳すにあたって方針みたいなものはあったんですか?
<内田>僕が普段しゃべっている言語に置き換えましょう、と。
それに合うよう、同期するよう、ピッチを合わせるというか、呼吸を合わせる。声の基本は息継ぎなんです。
兼好の息遣い、言葉、思考のリズムに同調していこうと。
テンポよく、兼好さんがサクサク書いているように、そう決めてから訳がラクになりました。
初校は脚注付けてたんです。
でも宮中のことは当時の人でも七割ぐらいは知らないと思う。
江戸時代の国文学者でも、固有名詞の意味がわからなかった。むずかしい言葉はスキップしても大過ないです。
ロックンロール聴いてるときだって、意味わかんないし(笑)。
<高橋>とはいえ、酒井さんは注を付けました。
<酒井>語尾はどうしようかと?
ですます調にすべきか、桃尻調みたいにはじけるか?
清少納言の年を考えると、これはですます調だし、このほうが自分もノレるかな、と。
読んで下さった人の感想が「枕草子って長いんですね」(笑)。
「枕草子」の意外な長さと、「方丈記」の短さはインパクトあります。
エロいところもあるんだけど、教科書には載っていません。
<高橋>翻訳をやってるとどうしても、先行者の訳が気になる。
橋本治さんの桃尻語訳は、現代語訳にも意味がある、ということを知らしめた画期的な作品。
やりにくかったんじゃないですか?
<酒井>この人もあの人も使っていない、いい言い回しを使ってやれ! という負けん気が沸き上がる作業でした。
<高橋>内田さんは?
<内田>いとうせいこうさんや嵐山光三郎さんの先行訳が送られてきたんだけど、読まなかった。
教科書や参考書の現代語訳は、全然、グルーヴ感ないじゃないですか? だから憑依するしかない。
注を付けない、と決めたとき、最後まで一気に読めるように決めた。
<高橋>僕は、英語の翻訳もやっているんだけど、アメリカの小説を訳したとき、すっと読めるように、というのを心掛けた。注釈をなくしたんですよ。
伊丹十三さんが昔やった「パパ・ユーアークレイジー」(ウィリアム・サローヤン)の訳は、人称ーmy、yourなどーを全部訳していました。逆にふだん、流し読みしてるな、と、日本語と英語の落差も知ります。
源氏物語を映画化した、市川崑監督のは、背景がほとんど作ってなくて、登場人物は女性なんかみな眉剃って、女優さんは誰が誰だかわからない。当時の女性はそうだったんだけど。風俗は時代に忠実だけど、セリフは現代的なんです、「キミのことが好きなんだ」とか(笑)。
でも、普通映像化すると、女優さんは現代風にきれいにメイクしても、セリフは「〇〇でござる」とか、今は使わない言葉遣いになってる。
市川版「源氏物語」は、すごく異様な感じ。
「パパ・ユーアークレイジー」の衝撃が何かに似てる、と思ったら、この映画だった。
当時の中国語は、知識人の第一外国語です。現代で言うとそれは英語。
それで、僕もそれを訳に使ってみました。
「枕草子」「方丈記」「徒然草」は、「エッセイのはじまり」をうたっています。
こういう豊かな世界を描くエッセイは、現代ではむずかしいと思います。
<酒井>当時は、「随筆」という分野が確立しているワケではないので、形態は自由自在、好きなように書いています。
<高橋>橋本治訳は、言葉のインパクトが凄すぎて、中身どころじゃなかったけど、酒井さんの訳だと本当に自由。
<酒井>清少納言は、当時の「教養」の、和歌を詠むのがあまり好きじゃなかった。
お父さんが有能な和歌詠みで、二世のプレッシャーがあった。
和歌にはおさまりきれない、和歌にない表現をしたかったと思う。
<高橋>作品を公表する予定はなかったんですかね?
<酒井>宮中の女房や定子さまには、見せていたのでは、と思います。
<高橋>徒然草はどう?
<内田>半ば公表、半ば秘密という、どっちつかずがいい味になっています。
徒然草は枕草子より時代が下がって、読者を想定しています。
見せる気がない、と書くところが、なんだかイヤらしい(笑)。
枕草子は宮中の女性、徒然草は95%男性読者を想定していると思います。
何も飾らずに書いているようで、メタメッセージを発信している、というスタイルを完成させている。
<酒井>徒然草って三面記事的な物、方丈記は天変地異ですが、枕草子は「あるある」なんです。
ネタなんですね、「それってわたしもあるある!」という共感を求めている。
<内田>兼好は、観察眼を誇示する、すごく頭がいい人だったんだよ。
「今、日本でいちばんアタマいいのオレ?」という自慢と、そんなアタマがいいのはオレしかいないという孤独感。
<酒井>清少納言も自慢する人を批判しながら、自慢してるんですよね(笑)。
<高橋>調べてみると、方丈記は親鸞の時代と近い。
思想書がいっぱい出た時代を反映した思想エッセイ。ドキュメンタリーの要素もある。日本の思想書って仏教ですから。
書こうとしてることはいっぱいあるけど、手持ちの言葉がない、というモヤモヤした感じが、僕は好き。
哲学的な言葉がない時代に、いおりを結んで考えるってパスカルみたいだと思う。
<内田>枕草子は仏教性はないよね? デコレーションでしかない・・・
<酒井>病を治すとか、効能性ですね。
<高橋>方丈記が短くなった理由を考えたんです。
戦乱での膨大な死者がいるのに、自分ひとり、いおりで解脱する、でも解脱しきれてないんだ。
<酒井>枕草子が書かれた平安時代ってバブルっぽい。
<高橋>日本語で「哲学」をつくろうとして、できなかった。
<内田>徒然草は、何が美しく、何が美しくないか、というガイドブック。
審美的な二元論なんです。
カッコよく見えて、実はカッコよくない、と切り込んでいる。
読んだのは、若い男子じゃないかと。
<高橋>またぁ〜!(苦笑)
<内田>きっとそうですよ(笑)。
読むと、女の子にモテる、実効性がある。
江戸時代まで、美的人間のマニュアル、という読まれ方をしたんじゃないか、と(場内大ウケ)。
<酒井>清少納言はなぜ「物語」を書かなかったか?
切り方、ネタの選び方で勝負する、寿司のようなのが随筆としたら、物語はフランス料理のフルコース。
イキのよさで、これが寿司だ、と見せているような感じ。
科学技術とかは変わっても、心の動き方は全然変化してないんじゃないかと思います。
<高橋>ここを読んでもらいたい! ここを注意して訳しました、というおすすめポイントを。
<内田>吉田兼好は、叙景でなく、匂い、皮膚感覚がすごく鋭い人。
鎌倉時代の「リアル」がふっと来る瞬間があります。すごく生々しいヴォイス・・・痛みについて書かれたところ、自己嫌悪、絶望感とかをサラっと書く筆力はたいしたもんですね。
<酒井>清少納言は紫式部に「紫式部日記」の中ですごく悪口を書かれてるんですね。
その自慢話がけっこうおもしろい。
<高橋>方丈のいおりって、分解して牛車で運べるので、モバイルハウスじゃん、と。
どんなふうにいじっても、訳しても本質が変わらない。千年後も全然大丈夫! と思えるところがあります。世のことがらの移り変わりを超えたな、と。その辺を読んでいただければ。
(この項、第二部へ続く)
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