京都では春と秋に「非公開文化財特別公開」を開催している。
今秋もそのシーズン到来。
21か所でさまざまな文化財(仏像、絵画等)が公開されるが、さすがに全部回るわけにはいかないので、そのうち3か所に行ってみることにした。
まず初公開となる「京都ハリストス正教会」。
市営地下鉄・烏丸御池駅で降り、御所の方向に向かって歩きながら、右折。
いかにも京都らしい、町屋や古い建物が続く「二条通り」を歩いていく。
ブロックごとに立ち現れる観音町、晴明町という雅な地名が心地よい。
やがてたどりついたのは、お寺の多い京都の町には、場違いのような教会の建物だった。
(とはいえ、御所のすぐ隣にはミッションの同志社大学があるから、さほど奇異なわけでもないのだろう)。
正教会、というと、わたしはひんやりとした冬の冷気を思い浮かべる。
ロシアのイメージからかもしれない。
いや、わたしが初めて正教会のことを知ったのは、受験勉強真っ最中の17歳の時。
プレッシャーばかりの重苦しい毎日からの現実逃避のように、家にあったものから手に取ったのが、ギリシャ正教会に関する本。
口絵写真の聖職者たちの黒ずくめの聖衣がいかにも厳かな感じで、真冬の寒いわたしの勉強部屋の空気そのままに閉じ込められ、それがわたしの中の正教会となった。
京都に正教会があったなんて、今回初めて知った。
ロシア・ビザンチン様式ながら、漆喰と木造の和洋折衷方式で1901年に建てられたという。
すぐに函館のハリストス正教会を思い出す。
中に入ると、正面には、聖書のいろんな場面を描いたイコンが、30枚ほど壁に飾られている。
聖障(イコノタス)、と呼ぶらしい。
カトリックやプロテスタントの教会とは、またちょっと違う雰囲気。
わたしは、イコン画家として知られる、山下りんの作品が展示されていたのがうれしかった。
受胎告知を描いた、透明感のある絵だ。
わたしの友人が大学時代に師事した先生が、山下りん研究の第一人者で、そのこともあって思いがけず彼女の絵に遭遇できたのも、友人との縁を感じてしまう。
次に向かったのは、伊藤若冲の絵を所蔵している「宝蔵寺」。
少し歩くが、歩いていけない距離ではない。
タブレットでグーグルマップを見ながら、二条通りをさらにすすんで寺町通りと交わるあたりまで行くと町の雰囲気が、在京時代、よく行った人形町みたいな感じでなんだかなつかしい。
河原町二条から河原町通りを南下、古めかしい京都市役所の前を通り過ぎ、「ラウンドワン」や「ジャンカラ」といった京都らしからぬレジャー施設が建つアーケード街を歩いて右折、さらに路地を入った先に宝蔵寺があった。
決して大きなお寺というわけでもないのに、ここにも「お宝」がある、というワケだ。
折からの若冲ブームのせいか、団体ツアー客が次々に入ってくる。
弘法大師創立のお寺だそうだが、蛤御門の変で焼失、現在の本堂は1932年に建立なったという。
若冲作品でおなじみの、軽妙かつ重厚な竹と雄鶏の図。
あえて正面向きにして鶏を描いたのがおもしろい。
一面真っ黒の画面に浮かぶ、どくろの図もユニークな題材だ。
墨の黒というより、すこし茶色がかった黒なので、どういう顔料をつかったのだろう? と思いながら見る。
ふたたび河原町通りを引き返し、今度は右へ折れて、三条通りを鴨川の方向へ歩いてゆく。
三条大橋の手前、木屋町通りに曲がればもう「瑞泉寺」が見えてくる。
大河ドラマ「真田丸」を見ていなかったら、ここを訪れようとは考えていなかったかもしれない。
この寺は、秀吉の甥、豊臣秀次とその一族を弔うために1611年に建立された。
「真田丸」では、豊臣秀次が、秀吉の子・秀頼の誕生で自分の地位があやうくなるのでは? と次第に追い詰められてゆく様子を、新納慎也が好演していた。
切腹させられた、とも言われるが、ドラマの三谷幸喜の脚本では、
「精神的に参ってしまった挙句、自害した」という解釈だった。
史実はどちらかはともかく、秀次が不幸な最期を遂げ、一族が処刑されるという惨劇があったのは間違いない。
秀次の最期を描く「秀次公縁起」といった絵巻物、彼の愛用品、処刑された側室たちが遺した辞世の歌を、彼女らの着ていた小袖で表装して掛け軸にした品々を展示。
なかでもわたしの目を惹いたのは、秀次がかぶっていたという黒い冠。
肖像画などで見る、盛装した姿でかぶるあの冠である。
意外と小さめ、網目模様に編まれているが、これを実際に秀次がかぶっていたのだ、と思うと、みょうに生々しい。
せっかくなので、鴨川を見下ろしながら三条大橋を渡ってみる。
外国人観光客多し。
電車で帰ろうかと思案しつつ、結局、河原町通りまで戻って、京都駅ゆきの市営バスに乗り、JRで帰宅。
※画像は左から「京都ハリストス正教会」
伊藤若冲の「竹に雄鶏図」
「髑髏図」
(10月31日)
ログインしてコメントを確認・投稿する