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2016年09月04日09:30

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信仰を試される回り道

「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。」(ヨシュア 6:2-3)

ジェリコの城壁が崩れ落ちる有名な場面だがとても不思議な出来事だ。イスラエルの民は神には一瞬にしてジェリコを滅ぼす力があることを確信していた。それなのに神は無意味なことを命じた。城の周りを7日間回れと言うのだ。実際に民がその意味を理解していたとは思えない。しかし誰一人不平を言わずに実践した。敵軍が見ていたとしたら、きっとあいつらは何をやっているんだ。腰抜けどもとあざけっていただろう。

ここで学ぶべきことは神の命令は絶対だと言うこと。神の計画のすべてを知ることは人にはできない。自分にはなぜだか分からない回り道をさせられることがある。それは不当だと人は思う。自分の願うこと、約束されたことはすぐにも叶えてもらいたいという焦りが強くなり、自分で動きだして何とかしようという衝動にかられたことはないだろうか。それで失敗して、神は肝心な時に助けてくれないと不平をもらす。

何もかも神に任せて自分は何もしなくて良いというのとは全く違う。しかし神は最善の時を知っておられる。だから信仰を持って進む時には神の時が熟するのをただ待つしかない。忍耐と神の命じられたことはたとえ自分に理解できなくても従うことがとても重要なことになる。

モーセが紅海を渡る時海は開きイスラエルの民は濡れずに乾いた地を渡りおおせた。後を追うエジプトの群は閉じられた海に呑み込まれた。それはイスラエルの民の敵だから滅ぼされたのではなく、エジプト人が信仰を持っていなかったからだろう。主により頼む者は幸いを受けることの証拠ではないだろうか。

かつて新しい会堂を求めて物件を探し回ったことがある。良さそうな物件が見つかり、教会員数人がその周囲を7回まわった。ところが、その物件は入手できなかった。誰も神の御心を聞いていなかったからだ。御心が示されない時人間的な思いだけで動いても無駄だ。しかしそれから一年後にさらに好条件の物件が与えられた。神は時として人に無駄なことをさせる。しかしそれは見放されたと言うこととは全然違う。時が熟すまで信仰を強く持って歩む時願いは叶う。神の時と人の時は尺度が違う。待ち望もう。主を信頼しよう。そして主が命じるなら甘んじて遠回りをしよう。





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