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2016年07月07日14:33

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「ダリ展」 「伊藤若冲展」

7月1日に伊藤若冲のシンポジウムを聴きに行ったのだが、http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1953838015&owner_id=5348548すぐそばの京都市美術館でダリの回顧展が当日から始まったので、こちらも行ってみることにした。

「ダリ展 〜奇想全開」

考えてみたら、わたしが20代の頃、ダリはまだ存命だった。
ミロもそうだし、ピカソだってわたしが小学生の頃まで生きていた。
改めてスペインが生んだ20世紀の三大巨匠とともに生きてきたことを実感する。

ダリは1904年まれ。
おっ! とすると明治36年(1903年)生まれのわたしの父方の祖父と1歳違いではないか。
そういう目で見ると、奇想天外な作品を残した天才も、ぐっと身近に思えてきてしまうから不思議なものだ。

ダリ作品は過去幾度も見てきたし、単独の「ダリ展」としても、「シュルレアリスト展」のいち画家としての出展も見てきたが、彼のごく初期の作品をわたしが見るのは、これが初めてではないか。
若干、15,6歳で描かれた絵は、のちのダリとは思えないほどの穏やかな海辺の風景画。
印象派の影響を受けたであろう、光がたゆたう、明るい渚が描かれている。
だが、同様の海辺の風景に自画像を配した17歳の作品は、唐突に出現したような自画像がどこか不気味なインパクトを漂わせており、彼の強烈な自己主張を早くも見る思いだ。

20世紀をまるごと生きた男は、その作品の足跡がイコール美術史になる。
モロにキュビズムに影響された絵は、遠目に見れば、ピカソか、ブラックか? と見えてしまう。

観覧している男性が奥様らしい連れの女性に、
「ダリの絵って、どこか感覚を狂わせるような、不安感があるねえ」
と話しかけている。
固いはずのものがやわらかくなり、やわらかいはずのものが、カチカチにかためられている。
画面に登場する、とりとめのない、関連性がばらばらの文物。
昔からわたしはダリの絵を見ると、
「いったいどこからこんな発想が沸くんだろう、このヒト・・」とよく思ったものだ。
あるイラストレーターがダリについて
「こんなコトを絵にしちゃっていいのかよ!? と言いたいぐらい発想がぶっ飛んでる」と書いていたのを思い出す。
わたしの夫は以前、
「ダリの絵画はコンピュータ・グラフィックスをどこか思い出す。とんでもない発想をする人だから、すっと長生きしていたら、大喜びしながらCG制作とかやってたんじゃないか」
と評していたことがある。なるほど、シュールなあまり、デジタル世界と親和性が高い、とも言えそうだ。

わたしはもうひとつ、地平線が遠く、深い空の青が続く、どこかしんと静まった様子の一連のダリ作品を見るたびに、
「核戦争後の地球って、きっとこんな感じなんだ」と思いながら見ている。
音もなく、会話もなく、荒涼とした大地の終焉のその先。
ダリは「誰も見たことのない風土」を描いているのだ。
(7月1日、京都市美術館)


「伊藤若冲展」

会場の「細見美術館」は、シンポジウムがあった会場と、道を隔ててすぐ隣にあった。
「東京の巡回展ではありません」と入口に張り紙が。
先般、激混みの末に閉幕した東京都美術館の展覧会での、「動植綵絵」が展示されると勘違いしてやってくるお客さんがいるらしい。
でも「伊藤若冲展」と銘打っていたら、そう思ってしまうだろう。

細見美術館は、今回初めて来訪したが、若冲作品の収蔵で有名らしい。
水墨の掛軸が中心だが、例によって、一瞬の動きを巧みに切り取った、掛け軸や屏風の中のニワトリたちが迎えてくれる。
重なった羽は、至極丁寧に、そして尾羽は、思い切りのいい筆遣いで、一気呵成にサッと走らせたかのようなダイナミックさ。このメリハリが絵を魅力的にしていると思う。
(7月1日)
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