いつのまにか7月になってしまった・・(^_^;)
6月に見たドキュメンタリー映画がふたつ。
「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」
マイケル・ムーアが巨体を揺らし、例によって「アメリカの常識は世界の非常識だった!」とびっくりぽんな事実を白日の元にさらす、というコメディ仕立てのドキュメンタリー。
アメリカは実のところ、第二次世界大戦のあと、ベトナムやアフガン、イラク、シリアと「負け戦」ばかりなのだ。国防総省から白羽の矢が立ち、マイケル・ムーアは侵略者となって、ヨーロッパへ突撃する。
ところが、まずイタリアでは「有給休暇は8週間」と聞かされ驚愕。
たっぷりとバカンスを楽しみ、通常勤務の時でもお昼休みがいっぱい。リフレッシュして仕事の効率も上がるという。
「ナルホド! アメリカもこういうことを取り入れるべきだな。そのアイデア、いただいたぜ!」とマイケル・ムーアは「侵略」のシルシに、星条旗をオフィスに打ちたてて、いざ、次の国へ。
フランスでは、給食がまさにフルコース並みの手の込んだメニューとテイストなのに圧倒される。ムーアは、女子高生の子どもがいる同行のスタッフに、ハイスクールでの「給食」を写メでスマホに送ってもらうが、フランスの子どもたちはその貧弱さに「何これ、食べ物なの?」「まずそう・・」と逆に驚愕。
そんな具合で「世界侵略の旅」が続くのだが、殺人犯もこぎれいな一軒家に住み、これが「刑務所」のノルウェー、宿題をゼロにして逆に学力世界一になったフィンランド、時間外に仕事のメールを部下に送ることは禁じられているドイツなど、アメリカ人には理解しがたいジョーシキが目の前に次々に現れる。
アイスランドでは女性が、政治家や会社経営者の多数を占める。
彼女たちの誠実な話を聞くうち、こういった国のほうがより国民的幸福が高いのだ、とムーア一行は実感するのだ。
とりもなおさず、軍事費に膨大なカネをつぎ込んでいるアメリカが、ヨーロッパの各国のように「みんなが幸せになるため」に予算を割けば「世界侵略」もたやすいだろう・・
ラストシーン、マイケル・ムーアは旧知の友人と、ベルリンの壁を訪ねる。
かつての東西イデオロギーを隔てる強固な建造物は、今では観光名所だ。
ムーアは「永久に壊れないと思っていた壁だって壊れた」と、つぶやく。
それは、アメリカだって変われるはず、という彼の希望に思えた。
ムーア監督らしい、ジョークの利いた作りで、ヨーロッパの政策を見せることで、裏返しのアメリカの問題点をこれでもかとあからさまにするのだが、各国での見せ方のパターンがいっしょ。
それを繰り返すので、ドキュメンタリーとしてはやや平板な印象だ。
むしろ映画というより、TV向けのドキュメントのようなスケール感に終わっている。
登場した各国でも、さまざまな社会問題を抱えているはずなのに、「とてもいいところ」だけを過剰に取りだしている感もぬぐえない。
もっとも、これもムーア監督なりのやり方なのだろう。ここまで見せてやらないと、ドメスティックに完結しているアメリカ人には「世界の常識」がわからないんだ、と。
(6月7日、TOHOシネマズ梅田)
「FAKE」
佐村河内守、を覚えておいでだろうか。
「現代のベートーベン」「耳が聞こえない奇跡の作曲家」と話題になっていたところを(これはNHKスペシャルで放映したのが大きい)、週刊文春で新垣隆氏が「わたしは佐村河内守のゴーストライターだった」と暴露、一気に彼の評価は逆転し、佐村河内氏は世間を欺いた大悪人としてマスコミから叩かれまくった。
そして「ゴースト告白」をした新垣氏はこれまた逆手に取ったようにTVの露出が増え、バラエティー番組やCMにもその姿を見かけるほどだ。
森達也監督は、あの騒動の後、横浜のマンションで息を詰めるようにひっそりと、妻と1匹の猫と暮らす佐村河内守氏の姿に密着。
「じゃあ、何がニセモノでなにがホンモノなの? 真実とは何なの?」
と観る者が考えざるを得ないドキュメンタリーである。
ほんとうに耳が聴こえないんですか? と尋ねる森氏。
佐村河内氏は音がひずんで聴こえる「感音性難聴」だと説明する。「健聴者」のように聴こえた音がそのまま伝わって聴こえるわけではないので、説明が難しい、体調によっても聴こえる状態に波があるのだと。
彼と森氏やスタッフとの会話は、妻が逐一手話通訳をおこなう。
佐村河内氏は作曲ができない、まったく譜面も読めなかった、と告発した新垣氏については相当嫌悪感を抱いているようだ。
彼は嘘をついている、と否定し、交響曲のために自分が書いた膨大な「作曲シート」を見せる。
それはオタマジャクシが踊る譜面ではないものの、作業指示書のようにも見えた。
佐村河内氏がいわばプロデューサー的な立場で、それを実体化するのが新垣氏だったのか。
テレビのバラエティーでイジられる新垣氏の姿を、佐村河内夫妻は複雑な表情で見つめていた。
彼の父親は「私たちまでうそつき呼ばわりされて無念だ」と語る。
佐村河内氏が「被爆二世」と紹介されていたことも嘘だ、と一部で言われていたからだ。
スタッフの前で被爆者手帳を広げて見せるが、その姿が痛々しい。
森氏たちのほかにも海外のジャーナリストや、フジテレビのスタッフが取材やTV出演依頼にマンションへやってくる。
そのたびに出されるケーキとコーヒー。
佐村河内氏は、食事の前には大量の豆乳を飲む。
観ているうちに、豆乳とケーキでおなかいっぱいになりそうな映像だ(^_^;)。
映像では森監督と佐村河内氏との距離感がとても近く、いっしょにベランダに出て煙草を吸ったりするし、「マスコミによって天国から地獄へ突き落された佐村河内氏に同情して、“真相”をあばこうとする告発映画なのか」と思って見ていたが、必ずしもそうではない。
やはり見ながら、さまざまの疑問が出てくる。
なぜ18年間も新垣氏とそんないびつな関係が続いたのか、奥さんは「奇跡の作曲家」としてNHKスペシャルの取材を受けたときに、何も思わなかったのか、難聴の状態で作曲もできるのか?などなどだ。
それらの疑問が氷解することはなく、いつもどんなことがあっても、影のようによりそう妻の香さんの姿は、夫婦愛をいやがおうにも強調してしまう。
でも見ながら、これも演出なの? と思いながら、だんだんとタイトルのように何がFAKEで何が本物なのか、ますます混迷していくのだ。そもそもそうやって白黒つけることができるのか、悪者、善人と色分けすることに意味があるのか、と。
昨今、マスコミやネットでの有名人叩きを見ていると、だれかターゲットを見つけたら「いくら叩いてもいい」認定をして、新しいイケニエが登場するまで叩きまくる現象が繰り返されている。
そうやってみんな溜飲を下げるんだろうか、なんか殺伐としすぎてないかい?
勝手に持ち上げといてはしごをはずすのか、とうんざりすることが多い。
そんなさなかの「FAKE」の公開は、世の中のそんな騒ぎのむなしさや恐怖をも映し出すかのようだ。
ただ、佐村河内氏が「大ブレイク」することになったNHKスペシャルについては、映画の中で言及がなかったし(復興のために作曲したというふれこみで、被災地の女の子は佐村河内氏によって勇気づけられた、という感動的な内容になっていた)、結果的に被災地のみなさんを傷つけたことへの謝罪もなかった。
もっともNHKはあの番組について検証番組さえつくらず、わたしにはほっかむりしているように見えるが。
わたしは左耳のいわゆる「聴こえ」がよくなく、ずーっと耳鳴りがしていることもある。TVを見る時もボリュームを上げている。だけど健康診断では異常なし、と言われる。
だから「難聴」とまではならないのだろうが、たしかに「聴こえ」が良好でないことを言語で説明するのはむずかしい。佐村河内氏の言うことも一理あるな、と思うセリフもあった。
森氏は佐村河内氏にある提案をする。
それは彼の「汚名を雪ぐ」ことになるのだろうか・・・
映画に登場する、佐村河内家の猫が象徴的。
しゃべれないけど猫こそが何もかも見て、真実は何かを知っている、と思えてくる。
揺れ幅が大きいだけ、揺り戻しもデカくなる。
いま、テレビでもてはやされている新垣氏も、また逆に揺り戻しが来ないとも・・などと思うのだった。
(6月16日、第七藝術劇場)
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