世を挙げての若冲ブーム。
京都市や関西広域連合の主催で、若冲のシンポジウムが京都で開催、ということで申し込んでみた。
当日、会場のロームシアター京都メインホールは聴衆でぎっしり。ようやく空いた席を見つけて座ったほどだ。
パネリストである美術史家の辻惟雄氏の話を楽しみにしていたのだが(岩佐又兵衛に関する、辻氏の著作も読んだことがあるので)、残念なことに辻氏は体調不良とのことで欠席。
まず美術史家・狩野博幸氏が「若冲の魅力、新たに見えてきたこと」と題して基調講演。
以下はその概要である。
「1716年、尾形光琳が死去、その年に伊藤若冲が生まれている。
彼は18世紀の京都でしか生まれえなかった画家といえよう。
2000年に京都で没後200年ということで若冲の展覧会を開いたのを端緒に、伊藤若冲のブームが起こっていった。
でもその当時は展覧会場で「ワカオキはどこでやっていますか?」と聞かれるほど「じゃくちゅう」という読み方はまだ浸透していなかった。
わたしは“若冲ブームの火付け役”などと言われたけれども、別に放火犯ではない(笑)。
若冲作品は21世紀の今でも色彩があざやかで美しく、褪色していない。
それは、当時もっとも上質な、不純物が少ない絵の具を使っていたから。
<東京で開催され、大盛況だった展覧会で展示された『動植綵絵』が、ステージのスクリーンに映し出される>
彼は「青物問屋の息子」などと言われているが、彼の実家は専売的な問屋でかなり裕福だった。その潤沢な資金で高級な絵の具を使えたのである。
たとえば雀の絵では、雀の目玉に漆が使われている。
黄檗宗の僧侶であった「売茶翁」を若冲が描いているが、彼は相国寺の大典和尚とともに「若冲」の号にかかわっている。
売茶翁は50歳になった時寺から出て行方をくらまし、僧籍も捨て、煎茶を売っていた。
漢詩人でもあったのだが、一介の茶を売る翁となったのである。
江戸時代、秩序を重んじる朱子学は国学でもあったが、売茶翁の生き方は、その風土の土手っぱらに穴をあけるようなものだったのではないか。
若冲も商家の生まれだが、商い、というものはいやしいもの(農民や職人のように何かを生産するのではなく、物を右から左へと流して利益を得る)とされていた時代、そのどこがいけないのか、というのを若冲は売茶翁から影響を受けた。
商人である後ろめたさが消えたのには、売茶翁の存在があると思う。
若冲も絵を売って、一斗の米を得ていた。」
その後第二部ではパネルディスカッションが行われたのだが、実のところ、これがかなり期待外れであった。
若冲作品を多く所蔵しているミホミュージアムの学芸員、漆芸家、京友禅の理事、きもの研究所のプロデューサーらが登場したが、若冲作品を現代に再現して、工芸品や着物の柄にレプリカとして創作したときの苦労話、工芸界の裏話、プライスコレクションで有名なプライス氏と食事をしただのといった自慢話、あげくにデパートでやる展覧会のPRに終始し、肝腎の若冲の本質に迫る話は聞けずじまい。
わたしは、「若冲はほんとうに“異端児”なのか? 彼の美術史の中での位置づけはどうなのか?」といったことを聴きたかったのだが、質疑応答の時間もなく、がっかりである(+_+)。
若冲作品のクリアファイルをタダでもらえたのが、せめてもの救いか。
(7月1日、京都市左京区・ロームシアター京都)
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