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2016年06月14日20:06

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Bookishでブッキッシュな話をしよう

10年ぶりに沖縄に行ってきました。
先週、母の見舞いでまた福岡に帰省していましたが、池澤夏樹さんの新刊「沖縄への短い帰還」の発行を記念してのトークイベントが6月10日に予定されていたので、思い切って予約し、福岡からANAで那覇空港へ。
場所は那覇市からバスで40分ほどの西原町の高台にある「ブックカフェ ブッキッシュ」。
カフェを併設した、おしゃれで落ち着けるお店です。
ただ、バス停からお店まではほとんど山登り状態で、あえぐようにして休み休み登って行きました。

「沖縄への短い帰還」は、かつて沖縄に10年住まった池澤氏が「オキナワ」の文化、自然、日々の生活、基地問題などについてさまざまなメディアに発表したもので編まれている。基地問題を通し、本土と沖縄の関係から見た日本の精神のありようなど、示唆に富むものも多い。
トークイベントの進行・司会は、この本を発行した、ボーダーインクの担当編集者・新城和博氏。
以下、2時間ほどの内容を、わたしの手元のメモをもとにまとめてみました。
うまく書きとめられなかったところ、聞き洩らし等もあり、前後のお話がスムーズにつながっていない箇所もありますのでご了承ください。


ここのお店の名前が「ブックカフェ ブッキッシュ」っていうのがいいですね。
僕が芥川賞を受賞した後、書き下ろしではなく、すでに書いた文章を集めて本を出したんですが、それが「ブッキッシュな世界像」。“ブッキッシュ”って「頭でっかちな」、とか悪い意味もあるけど、それで何が悪いんだ、という感じがあって。同じタイトルを持つこの店が好きです(笑)。

――沖縄には10年住んでらっしゃいましたよね。

最初は那覇市内、それから知念村ーいまの南城市ですがーに5年、知念村では地区の班長もやって、家を回って集金もしたりしました。

――最初の来沖は復帰前?

1973年だから、復帰後。沖縄の文化の強烈さにしっぽを巻いてしまって、これは力をつけなくては、と思いました。筑紫哲也さんなんかはそれよりも前で、パスポートを持って沖縄に赴任して来たんだ、と得意でした。
まず僕は音楽にハマった。りんけんバンド。それに見るもの聞くもの珍しい、おいしい。
「遠足に行った。では作文書きましょうね」。それが自分のスタンスで、行ってきた旅先のことを書いている。

僕はずっと「帰りそびれた観光客」と自称してました。「勝手に特派員」とも。
そして沖縄のことは、観光について、どこへ行ったか、何がおいしいか、そして基地について、ヤマトのメディアに発信しました。当時連載していた週刊朝日の「むくどり通信」とかに。
おととし、新城さんから、沖縄について書いたものを本にしよう、と提案があったんです。

――長編小説「カデナ」は、沖縄を出てフランスで書かれましたが。

あの小説のように、感情をこめるときに使う方言は効果的だと思います。
小説の中に使えるぐらいは聞きかじっていましたが。
僕は、1軒の家に6年以上居たことがない。
フランスから帰国して、その次は故郷の香りがするところ、ということで、うまれは帯広なんですが交通の便を考えて札幌にしました。

沖縄に住んだ10年、懐かしくていい日々だった。
知念村を出ようとしたのは、子どもの学校です。幼稚園の頃はそうでもなかったんですが、小学校にあがるとみょうに「ヤマト的」になってしまった。
あるとき僕がおみやげに買ってきた筆箱を、子どもが使うのを渋るので訊くと、ほかの子がもっていないような筆箱だから使えない、と言う。子どもの自主規制ですね。
目に見えない同調圧力が子どもの間にもある。
四軍調整官の件もあったし・・(ごんふく註・2003年、イラク戦争開戦直前に、村でアメリカ四軍調整官を招いての講演計画に抗議した件)。
でもフランスでも、子どもは最初フランス語がわからず、親を恨んだと思う。
まあこれは、なぜ僕が沖縄を出たか、という弁解です(笑)。

――雑誌「コヨーテ」に「沖縄への短い帰還」を書かれた。

あんなに楽しかったのに、沖縄と言う季節が自分の中で終わった、という実感ですね。

<ここから、トークイベントに参加の25名から、事前に募った質問の中からいくつか新城氏がチョイスして、池澤氏にたずねる>

――じゃあ、事前の打ち合わせはなく、即興で答えてもらいますね・・・・
   なぜ世界各地を旅しているのですか?

まず、旅、なんですよ。知らない所へ出かけて、ここはどういうところだろう、と歩きまわって色々見て分かった気になって通う。
「楽園幻想」ですね。旅行者は幻想をそこに重ねてしまうのがクセです。その幻想が観光を誘う。でも限界がある。旅行じゃ見えないものがある。せめて1年ぐらい暮らしてみよう。つまり、季節が一巡するまで、です。

1930年代にギリシャに移住したジェラルド・ダレルが書いた「虫とけものと家族たち」を翻訳して、訳し終わってギリシャに遊びに行ったんですが、ちょうど軍事政権が倒れたタイミングでした。だから国じゅうのひとびとが明るかった。
29歳最後の日に出発して、到着したら30歳になってました(笑)。
ギリシャでは日本人相手の観光ガイドをやってましたよ。
ギリシャ語がだいぶできるようになると観光コースにない小さい島へも行ったり。そんなところへ東洋人が来てギリシャ語を喋ったりすると、すごく歓迎してもらえます。

旅をして楽しい、それを書いてみなに読んでもらう、旅とは幻想なので見るものにフィルターをかぶせているんです。

――旅を終わりにしたいと思いませんか?

それほど好きな土地はないです。だから旅は終わらない。さすがに引越しは体力的にきつくなりましたが。
働いて、旅して、戻って働いて、また旅して・・・いわば「定住ヒッピー」。
「帰りそびれた観光客」というのは、自分の立場を説明するのに思いついたコトバです。

以前、ムスタンという国に行ってみたいと思いました。
外国人は長いこと入国禁止で、入っても高額なお金がかかる。
それでここを舞台にした小説を書きます。ついては取材費を・・とお願いした(笑)。
その次は南極に行きたい、と思った。
それで南極を舞台に小説にしよう! 作家として動機が不純なんです。

人間は風土の産物です。
地理的な関心でものを考え、違うところに行けばどうなるか? と。

――風景や人物描写で心掛けていることは何ですか?

書いているときに、登場人物が勝手に動きだすんですよ。
「キップをなくして」という小説を書いた時も、電車に乗ってキップを紛失してしまったら、改札を出られなくなってしまう、というところから始まって、東京駅にそんな子どもたちが集まって暮している、というストーリーになった。
子どもたちは共同生活をして、食事は駅の食堂が使え、忘れものの衣服を使う・・・そして書いているうちにキップをなくしたのではなく事故で亡くなった女の子が登場し、その子がどのように「あちら側」へ無事行けるのか、という話になりました。

描写については、映画が発明された後で、小説の文体は絶対に変わったと思う。
小説を読んだり書いたりしても、ビジュアルにものを考えるようになった。それをそれでいい気持になってしまったらオシマイだ、という気がしています。
取材で沢山写真を撮るけれど、それに頼ってはいけない、と思います。

一行だけでは小説にはならない。そのひとことをひきだす、いわば決めぜりふが出てくるような構成を作る。
映画を危険視しながら、映画的なものも入って来る。
地理的人間なので、まず、場所があって、物語が始まります。トポス的人間とでも言うか。

長編の「アトミック・ボックス」を書く前、東北の被災地を回ってました。被害がひどいんです。
東北から遠く離れてすこし明るい所へ、と思って瀬戸内海へ。エンタメにしてみよう、となると宝探しと追っかけだ。僕の気持としては逃げる側です。そして追う側は大きいほど面白い。つまりは国家、ということになります。だから国家の犯罪がからむ。
ヒロインの逃亡の異動過程は全部タイムテーブルを作りました。これは楽しい。

――池澤さんは本を読むとき何を飲みますか?

僕はカフェインがききすぎるんです。昼間は大丈夫ですが、夕方から飲むとダメ。いつかコーヒーを飲んでしまって夜、泊まったホテルで眠れなくてうなされたことがありました。

――書評のため大量に本を読まれていますが、どのような感じで読んでいますか

ちゃんと机について、きちんと座って読みます。メモ帳、附箋を机に用意して、要所にマークを入れる。
<ここで司会の新城氏が「いつか池澤さんに本を貸してもらったとき、その中の書き込みを見て、おお〜っと思ったことがあります」と。>

書評とは別に、楽しみで本をとっておいたりするけれど、いい小説を読むと、その深い仕掛けを、参考にならないか? といつも考えていますよ。これは危険な場合もある。みんな村上春樹風になりかねない。文体は乗り移りやすいですよ、気をつけないと。

――新人賞の応募小説がことごとく村上春樹みたいな文体だった、なんてエピソードがありましたからねえ・・・次は「父」について。どういう存在ですか。

(キッパリと)けむたいです(笑)。
僕は、文学をやっていこう、と思ったけど、食べて行くのに翻訳をやった。
詩を書くと、言いたいことが言いきれない。
さいしょ小説を書くのは自分に禁じてました。父と比べられるのがイヤだったから。
読むだけでなく、書く側に回ったらどんなにいいだろう、と思うのだけど、もし書いてダメだったら、のこりの生涯をどうしよう。
結論が出るバクチを先延ばしにしていた。
泣きごとを並べて自分をかわいそうがるのは嫌だ。だから私小説は書かない。
小説の原型として「十五少年漂流記」が浮かんだ。
無人島に流されて、助けが来るまで、残った人々が協力し合う、というモチーフはこれ以外にも世界中にいっぱいあります。
「十五少年漂流記」はいわば入れ物である。
作家はその中に思想を入れられる。そうして書いたのが小説デビュー作「夏の朝の成層圏」です。

――2010年、朝日賞を受賞されたとき、同じく受賞されたのが水俣病研究の原田正純先生ですが、授賞式などで何か原田先生とお話しされたなら教えていただけますか?

控室でほかの受賞者と顔を合わせるけど、実は、原田さんとは石牟礼道子さんの話をちょっとしただけなんですよ。原田さんは僕の小説はお読みになっていないと思う。授賞式後も朝日新聞の担当者や他の出版社の編集者がやってきて話をするので、「じゃあ、あとで何月何日にまたお会いしましょう」と約束をしないと、そのままになってしまう。原田さんともそのとき会ったきりでした。

――文学全集について

かつては大御所たちが、ロシア文学は何巻、フランス文学は何巻と領土をとりあって作っていた。
文学全集が売れたのはせいぜい70年代まで。
日本人はセットが好きです。この中に全部入っています、と言われると買う。幕の内弁当とかもそう。
文学全集は戦前の改造社が思いついたアイディアです。当時の日本人の教養主義、セット好きにマッチして30万セットも売れました。
これが売れたことで作家はひとりだちして生活できるようになりました。
ところが、そんなに教養を身につけなくてもいいよ、と言い出したのが角川春樹です(笑)。
これで本が教養財から消費財になりました。

河出書房新社から「世界文学全集」をつくろうともちかけられ、僕は、自分が生きている時代、つまり20世紀後半以降の作品に、“世界文学全集”と付けちまえ、と(笑)。
でもこんなこと社運がかかりますよ、と言ったけど担当者はやりましょう、と。そしたら予約だけで5000部ありました。
当初の予定の24巻まで編集して、30巻まで作りたいと。短編集、そしてアラブ圏の作品も入れたいと思いました。
「世界文学全集」には石牟礼道子さんの「苦海浄土」を日本人の作品から唯一入れました。
日本の読書人と出版界は彼女の作品に冷たい。僕は戦後日本文学で一番大事だと思っています。
そのあと「よくぞあれを世界文学全集に入れてくれた」という声を聞きましたが、もう一度石牟礼道子にスポットライトを当てることができたと思います。
世界文学全集の短編集には日本語で書かれているけれど日本人が誰も出てこない金達寿の「朴達の裁判」、沖縄を舞台にした目取真俊の作品も入れています。

そして最後の巻が発行されたのが2011年の3月10日、東日本大震災の前日でした。

東北のガレキの中を歩くと、なんでこんなことになったんだ、なんでこんな国に居るんだ、なんで自然災害がこんなに多いんだ・・と思ってしまいました。
泣いて、また立ちあがって作る、それが日本人の無常観をつくっているのだと思います。

日本と言う国は1945年まで異民族支配を受けなかった、まれな国です。
中国大陸とのあいだには海があるけれど、文化も人も渡ってこられる。しかし大きな軍隊が渡って来る分にはむずかしいくらい隔たっている。これがイギリスだと、他国からの侵略が何度もあった。

世界文学全集の次に日本文学全集をやろうと誘われ、震災の後の東北を歩きながら、この国の人ってどういう人なのだろう、と。世界文学全集は20世紀後半にしたけど、日本文学全集はエリアを広くし、日本人の精神がどう育ったか、その結果我々はどうなったか、を考えたかった。

ただ、源氏物語を原文のまま掲載しても、ふつうのひとはひと晩3頁ぐらいしか読み進めない。それじゃ読書じゃなくて「お勉強」。だから現代語訳をしてもらうにあたって、国文学者じゃだめ、作家がいい。与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴と多くの現代語訳が出ていますが、もっと新しい訳がほしい。
それもあぶらがのっている作家にやってもらおうと、角田光代さんに依頼しました。そのため、むこう3年は角田さんに新作の小説を書いてもらえない、と、彼女の担当編集者から僕はうらまれています(笑)。

現代語訳をやってくれませんか、と依頼をかけたら意外なほど多くの作家が乗ってくれました。
町田康さんなんか、もうワルノリです(苦笑)。
もちろん、誤訳がないかどうかは専門家を付けましたが、文体については任せました。
言葉が身体の中に入ってきたら、おのずと訳せるものです。町田さんの訳した「宇治拾遺物語」はカチッときまっているから、くずしても大丈夫。
編集者のほうが作家にじかに接している分、カンが冴えているから、現代語訳の作家はの人選は任せました。
僕はいわば監督だから采配を振るうだけ。
でも「司令官が先頭に立たないとダメだ」と言われ、「古事記」の現代語訳を僕が引き受けました。

古事記の文体はたじろがない、迷わない、スピードが速い。
だから登場人物は会ったらすぐに愛し合う。対して「源氏物語」は主語がなくて敬語があり、ねっとりとしています。

――「古事記」の現代語訳は、途中から脚注がツッコミみたいになってて・・・

いとうせいこうさん訳の「曾根崎心中」なんて、当時の風俗について注を付けていたら“なんとなく、クリスタル”になってしまった(場内爆笑)。

――池澤さんにとっての沖縄について聞かせてください。

すべての政治家が右へ右へ動いていく中で、左へ動いたのが翁長さんだけ。それは動かざるを得なかったから。
沖縄についてはずっと気になっているし、何かあれば書くようにしている。解決策ではなく、現状を突き付けて、考えろ、と。

沖縄への観光客が年間800万人になって、よかったのかな、と思うが、それを自分に言う資格があるのか? とも思う。
おもろまちが出来て変わってしまった。知念だってカフェだらけ。なくなってしまう、変わってしまうのは仕方ない。
でも、想い出は自分の中で変わらない。
今回、沖縄に帰って来て、ここの地名がぱたんぱたんと動いて、記憶が開いていく、それが面白い。

――また沖縄と言う季節が来るんでしょうか?

「しょうがない、沖縄に帰るか」と、言わないとも限らない。

――「当事者資格」を問われるかどうかにつて

ヤマトンチュのくせに、と言われることについてですね。
僕は先祖をモデルに、明治のはじめのアイヌとの交流を描いた「静かな大地」を書きましたが、アイヌでもないのに、彼らの視点で歴史を書きなおす資格があるのか? と考えました。それはあります。
でも、まず萱野茂さんのアイヌ語辞典を脇に置いて執筆し、突っ込まれないように調べた。
何がどうなっているかある程度論理の裏付けが必要になるのだけど、たとえばSNSなどでは論理は関係なく、感情的なぶつかり合いになってしまっている。

1945年の8月15日のあと、あれは“災害”だったと思うようにして、戦争責任は雲散霧消してしまった。自然災害に慣れた、日本人のメンタリティーです。

――沖縄戦では「鉄の暴風」と言う言葉があります。

地上戦の激烈さを「暴風」という自然災害にたとえているんですね。

僕はボーダーインク、という社名を見たとき、うまいな、と思った。
なんて粋なんだろうと。
inc は、会社という意味も、印刷物のインクの意味もある。
僕が地方都市が好きなのは、みんなが何足ものワラジをはいていること。いくつものことをやっていいて、マルチ的な生き方をしている。
新城さんも出版社の編集者ながら、エッセイも書き、以前はラジオのパーソナリティーもされていたでしょう?

――いろいろやらないと、生活が・・(笑)

僕はそういう生き方に尊敬の念を持っている、東京の編集者だとこうはいかないでしょう。それができるのが地方だと。
今回の「沖縄への短い帰還」に、編集者の新城和博とは正に水魚の交わり・・・どっちが魚でどっちが水かと考えた。たぶんきみが水だ、と書いています。

――僕、うお座なんですけど(笑)

僕は新城くんに、僕が書いたものを集めてもらうだけで、自分はまえがきを書いただけです。

――ほかに、これだけは聞いておきたいという質問はありますか?

<わたしはお父さんの福永武彦さんの愛読者で、「風花」に、幼い頃の池澤さんがモデルとなったかわいいい男の子がでてきますね>

あれはねえ、言い訳めいてズルい、と思う(苦笑)。
僕は父・福永武彦には高校生の頃「初めて」会いました。僕には「叔父」ぐらいの存在なんです。
それからときどきは会いましたが、結局死に目にも遭っていない。彼の家族に原稿、メモ、ノート類をなくさないように言っておいたのに、散逸してしまった。
その後僕は「福永武彦日記」を出して、これで親孝行になったのかな、と。
福永が亡くなったのが61歳。今年、僕は71歳になります。
父の享年を越えて、ひとりの作家として見られるようになりましたが、それまでは大変でした。

(台湾の女性からの質問)<日本人は幾度も災害にあってはたちあがり、また災害に遭うというのが日本人の無常観を作った、と伺いましたが、中国人・台湾人も同様にさまざまな自然災害に歴史上襲われています。日本人との違いはなんでしょうか>

中国・台湾と違い、ほぼ日本では言葉が同じで、理解しやすかった。だから比較的日本人は温和で、異民族への虐殺がなく、弱い者に味方する判官びいきの気質がありました。
例外は島原の乱です。
キリシタンは異民族と同じ、とみなされ、殺されました。
しかし、日清戦争、第一次世界大戦で“ラクして”勝ったため、それで増長して悪い面が出てきたように思う。ナショナリズムに凝り固まり、他の民族を虐げるようになった。
これはそういう時代のせいなのか、もともと日本人の中に在った悪い面が表面化したのか、わかりませんが。

<最後に「沖縄への短い帰還」の冒頭に掲げられている詩「自省」を池澤さんが朗読して、トークショーをしめくくりました>

(6月10日 ブックカフェ ブッキッシュ 19:00〜21:00)
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