「彼はすぐイエスに近寄り、『先生、いかがですか』と言って、イエスに接吻した。しかし、イエスは彼に言われた、『友よ、なんのためにきたのか』。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。」(マタイ 26:49-50)彼とはイスカリオテのユダのことを指す。ユダは銀貨30枚でイエスを売った。丁度奴隷ひとりの値段と同等と言われている。ユダはイエスを捕らえる暴徒たちを先導して来たが、この場面では偶然にかちあっただけで暴徒たちとは無関係な振りをしている。否、これから先のイエスの苦難に同情しているかのようにも見える。裏切った者を前にした偽善に悪魔の嘲笑が聞こえそうな気もする。イエスは自分の身に何が起きるかをすべて知っていたが、罵らず、非難せずにただ穏やかに「何をしに来たのか」と尋ねるだけだった。この譲歩に気付いてユダは自分の犯した過ちを悟るべきだったが悪魔に操られたユダには抗う力がなかった。ユダの是非は神学的にも微妙な位置づけとされる。ここでユダが改心したらイエスの救いの十字架はどうなっただろうという問題を提起する。ユダの裏切りは規定の事実として神の計画に定められていたと考える人も一般には多い。難しい問題なのでここでは避けて、イエスの言動を見続けよう。イエスがユダを含めてすべての人が救いを得るべきだと信じていたことは確かだ。改心の最後のチャンスをユダは捨ててしまった。この場面のちょっと前に遡るとイエスは服を売っても身を守るための剣を用意するように勧めている。ありえないほどぎょっとするイエスの発言の意図はこのイエスの拘束の場面で明らかになる。イエスを捕らえようとした大祭司のしもべの耳をペテロが怒りのあまり切り落としてしまった。イエスはペテロを叱り、しもべの耳を元通りにした。その後しもべがどうなったかは分からないが、おそらく奇跡的な癒しを体験してイエスの教えに従っていったのではないだろうか。イエスが持てと言った剣は権威を意味した。イエスは剣を持っていても使わないで解決する道を選べと教えていたのだ。どんな権威も使わない自由はある。許されているから何でもしてもいいとは限らない。イエスはユダさえ赦そうとしたではないか。世の中、自分にはあると信じた権力を振り回して人を従わせ問題の根本を見ずに深みにはまり込んで破滅する人が多い。クリスチャンは自分に与えられた神の権威を傘に物事を解決してはいけない。まず問題が祈りによって解決に導かれることを願う、それが重要だ。
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