今から296年前の1月22日。
ドイツ、ケーテンのお天気はどうだったんだろう?
きっと街は寒く、雪も降っていたかもしれません。
洗濯ものを干し終えて、ルーフバルコニーから見上げた抜けるような青空を見上げながら、ふとそんなことを考えた。
昨年、バッハのチェロ組曲でみつけた、謎の記号の意味を探すため、バッハの自筆譜文献をあさっている中で、改めて眺めた『ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの音楽帳』。
バッハが、最愛の、才能ある長男、フリーデマンのために、書いたお稽古帳。
最初のページには、ト音記号、ハ音記号、ヘ音記号によるそれぞれの音階と音名が記され、次のページには、装飾記号とその実際の演奏方法が。
さらにその次ページには『アプリカーチオ』というタイトル、すなわち、『運指法』とわざわざ断りを入れ、指番号が全て記されている小品が書かれています。
この音楽帳の表紙裏ページには、バッハ自身によって、以下のような記載が。
「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集
1720年 1月 22日 ケーテンにて記す」
几帳面そうな、美しく整った筆致です。
フリーデマンの母であり、バッハの妻であるマリア・バルバラ・バッハもまだ健在。
この半年後の7月に、この優しい母が急に亡くなってしまうなんて、フリーデマンには想像もつかなかったことでしょう。
母を亡くした子供の悲しみを想像すると、胸が締め付けられて、尚更、当時のフリーデマンのことが愛おしく感じられます。
とはいえ、それはまだ先のこと。
1720年1月22日のバッハ家。
幸せそうな4人の子供達と両親の一家団欒の風景も浮かんできます。
肖像画で見られるフリーデマンの面立ちは、父バッハよりも、母に似ています。
9才のフリーデマンは、おそらく、華奢な細身で、整った細面の利発な顔立ちの少年だったに違いない。
父バッハが彼のために、と書いた音楽帳。
フリーデマンは、目を輝かせて受け取ったのだろうか?
胸はずませながら、その裏表紙に自分の名前を書きこんだのだろうか?
そして、父と息子とで、どのようなレッスン、稽古が行われたのか?
使われた楽器は、おそらく、小さなクラヴィコードであっただろう。
まだ小さいその身長に合わせて、椅子の高さも、慎重に調整されただろう。
・・・とこうした、様々な想像をしつつ、家事を終えた後は、おもむろにピアノに向かい、この『アプリカーチオ』を弾きました。
昨年の4月から、ほぼ毎日弾いているこの曲は、私にとって、シャコンヌ同様、人生のパートナーのような曲となっています。
もちろん、バッハが記した運指の通りに、右手は3434で、左手は1212で。
この通りに弾こう、と試みることが、私のフルート奏法にも大きな変革と進展をもたらしてくれたし、何より、ピアノが大好きになった。
この弾き方であれば、清んだ響きが身体に染み渡る。
今まで弾いて居た「卵を包むような手」では、絶対に不可能だった343434.
「卵を包むような手」が如何に自分とって、普通であり、当たり前だったか。
子供の頃から刷り込まれたこのピアノの弾き方が、その後の楽器演奏にまで大きく影響し、私の場合はブロックとなっていた。
「卵を包むような手」は、手首に滞りを呼ぶ。
今となっては、はっきりとそれがわかるが、「普通」だった時は、それが「普通」なので、何も感じず、その滞った手首のままで、フルートも吹いていた。
それが、バッハが記したこの「アプリカーチオ」のお蔭で、すっかり変化した。
私にとって、この1月22日は、本当に、特別な、感慨深い「記念日」です。
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