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2015年12月18日15:59

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映画「杉原千畝」

わたしが「杉原千畝(すぎはらちうね)」の名前を知ったのは1990年、NHKで放送されたBBCの「日本への旅路」というドキュメンタリーだった。
杉原が発行したヴィザによってナチスから逃れた、幾人もの生存者たちが当時のことを語るものだったが、戦時中にそんな思いきったことをした日本人がいたと知って驚いた。
何より、そういうことがまったく日本国内で知られておらず、イギリス制作の番組で杉原千畝の名前を知ることになるという皮肉に憮然としたのを覚えている。そしてそのとき、杉原はもうこの世の人ではなかった。

それからしばらくして発刊された、妻の杉原幸子さんが書いた「六千人の命のビザ」を読み、ヴィザ発行までの苦悩や、そのことで戦後外務省を追われ、民間の貿易会社で働くことになった経緯を知ることになる。わたしには「隠された歴史秘話」だった。

その後、杉原のことはTVドラマ化されたり(加藤剛が杉原を演じていた)、外務省が名誉回復したり(鈴木宗男の働きかけがあった、と言われている)、舞台化もされたり(杉原役は吉川晃司、テーマ曲は中島みゆき)、かなり広くその業績が知られるようになったと思う。
それは「日本の外務省にそむいてヴィザ発行を断行し、ユダヤ人を虐殺から救った正義の人」という美談として語られていた。
だが、その一方、近年では彼の「スパイ活動(佐藤優ふうにいえば『インテリジェンス』と呼ぶのか)」のほうにも焦点があてられた本も出版され、単なる「日本のシンドラー」というより、したたかな情報戦をくぐりぬけていた外交官だった、という面も明らかになっている。
今回公開されている映画は、むしろ後者の杉原千畝をクローズアップさせたものと言える。


1934年、満洲国外交部で働く杉原千畝(唐沢寿明)は、ソ連から鉄道の経営権を有利に買い取るための情報収集にあたっていた。しかし関東軍の裏切りで、諜報連絡網の仲間を殺されてしまう。
白系ロシア人のイリーナ(アグニェシュカ・グロホフスカ)はなんとか生き延びる。

日本に戻った杉原は、友人・菊池(板尾創治)の妹・幸子(小雪)と結婚。
得意のロシア語を生かし、モスクワ大使館赴任を待つが、ソ連側から彼のインテリジェンス活動を警戒され「ペルソナ・ノン・グラータ(ラテン語で“好ましからざる人物”の意)」とみなされ入国できない。
1939年、外務省からリトアニアのカウナスに派遣された杉原は自宅兼任の領事館を開設、助手のペシュ(ボリス・シッツ)とともにヨーロッパに情報網を張り、情勢分析。ナチスドイツの暴走をいちはやく察知した。
しかし駐ベルリンの大島大使(小日向文世)に進言しても、ドイツとの同盟こそが日本のため、と信じて疑わない彼は聞き入れない。
杉原はドイツがいずれソ連とも衝突する、と読んでいた。そうなればドイツは戦力が東方戦線に投入され、日本への協力は得られない。そんな状態でアジアへ戦線を拡大するのは危険だー。
のちの歴史から見れば炯眼であったともいえる、杉原の情報分析は、しかし東京でも黙殺されることになる。

1940年、ナチスのユダヤ人迫害がひどくなり、逃げて来た避難民たちは通過ヴィザを取ろうとするがソ連がリトアニアに進駐したため、各国の領事館は次々撤退。
まだ残っていた日本領事館にユダヤ人たちが押し掛けて来た。
しかし、日本を通過したあとの受け入れ国が決まっていること、十分な旅費があることがヴィザ発給要件。日本の外務省からの返信は発給は不可。

苦悩する杉原だったが、外交官として命令を守れば、彼らを危険にさらすことになる。いや、ナチスによって早晩命を落とすのは明らかだった。

フィリップス社のリトアニア支店長で領事代理も兼務していたヤンは、領事館撤収の前に、オランダ領で、ナチスの手が届かないカリブ海のキュラソー島が、「避難民の目的地」にできると杉原に提案していた。

杉原はとうとう、ユダヤ人たちに日本通過ヴィザを発給することを決意。
のちに外務省から何らかの咎めを受けることを覚悟してのことだった。そのため妻の幸子にも「すべてを失ってもついてきてくれるか」と告げるのだった。
ユダヤ人たちは歓喜する。彼らにとってそれは命綱に等しかったのだ。

それからは毎日、杉原は山のようにヴィザの書類を書き続けた。現地採用の事務員たちも協力し、いちいち文言を書かないで済むよう、特製の認証用スタンプまで用意する。
その間、ソ連はリトアニア併合を宣言。領事館を閉鎖せねばならず、杉原は滞在先のホテルに臨時の発給所を作ってまでヴィザを求めるユダヤ人たちに応じ、さらにはリトアニアを発つ直前の駅でさえも、列車の発車間際までヴィザを書き続けた。

杉原発行のヴィザを持ったユダヤ人たちは、シベリア鉄道経由でウラジオストクへ。敦賀行きの船「天草丸」に乗ろうとしていた。
大量の避難民を前に、追い返せという本国からの連絡を受け、JTB現地社員・大迫(濱田岳)は困惑していた。だが、ウラジオストク領事の根井三郎(二階堂智)の決断で、乗船がかなう。
根井は満洲のハルピン学院で、杉原と同窓だった。
避難民たちを乗せた天草丸は日本海をすすむ。敦賀の山並が見え、ユダヤ人たちは長い旅路の末、生き延びた安堵に涙を流していた。

杉原はその後、東プロイセンを経て、ルーマニアのブカレスト公使館で、日本の敗戦を知った。


以前見た加藤剛主演のTV放映分はドラマチックなつくりで、杉原が動き出した列車の中でもヴィザを書き続け、走る列車の窓からヴィザを渡す、といったシーンがあった。これは実話だった、と読んだが、映画ではそういうシーンもなく、全体に淡々とし抑制した印象。
あえてドラマチックな場面は出さず、杉原がヴィザ発行をするか否かを懊悩したであろう場面もさらりと描かれている。

わたしはむしろ、杉原のほかに、彼と同期だった根井総領事の英断もあって、ユダヤ人たちが生き延びたことを、映画の中で知ったのが驚きだった。

映画でも杉原や根井総領事が繰り返しそらんじていた、ハルピン学院の「自治三訣」は、

人のおせわにならぬやう
 人の御世話をするやう
 そしてむくいをもとめぬやう

というもの。彼らはまさにその通りに生きた、ということなのだろう。

さて、杉原が取った行動は、上からの命令に背いた、ということで「外交官」としては失格かもしれない。
外務省が戦後、杉原千畝を「いなかったこと」にして、黙殺してしまったのもむべなるかな。
ホンネでいえば今でも外務省は杉原の名誉回復は、みずからの非を認めることになるので、やりたくなかったのだろう。

ラストシーン、外務省をやめ、貿易会社のサラリーマンとなっていた杉原は20数年ぶりに、彼がヴィザ発給をしたユダヤ人のニシェリ(ミハウ・ジュラフススキ)とモスクワで出会う。
ニシェリは、戦後ずっと、命の恩人を探し続けていたのだ。もう外交の仕事はしないのか、というニシェリに杉原は、
「わたしは今でも世界を変えよう、と思っていますよ」と笑うのだった。

そう、彼は世界を変えた。ヴィザ発給で救われたユダヤ人は、その家族も含め、六千人とも言われる。

ところで映画の中で、杉原は自分の名前につて「チウネ」と名乗っているが、外国では「センポ」と呼ばれていた。これについては何の説明もなかったようだが、妻の幸子さんの著作によると、「外国人には『チウネ』という発音がしにくいので、夫は音読みである『センポ』を外国では自称していた」とあった。そのへんの事情を知らない人が映画を見ると戸惑うのではないか。字幕を入れるなり、どこかで説明があったほうがよかったと思う。
(12月16日、109シネマズエキスポシティ)
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