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2015年12月12日10:13

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(続き)池澤夏樹氏講演 「編集と翻訳 『日本文学全集』から見えた文学の原理」(その2)

(その1より続く)

翻訳についても、創作に対しセカンドリーな、二次の仕事であると思われている。
ひところまでは大学でも翻訳は権威主義的な、上から目線の(外国語が分からない連中のために)仕方ないから訳してやる、という態度だった。

しかし翻訳して読む、上演して楽しむ、というのは大事なこと。
翻訳と言うのは、別の言語によるテキストを生みだす創作です。
新しい衣をまとい、別の世界へ進出する。
文学は個々の言語に訳されて、解き放たれ、世界文学のネットワークがつくられる。

「世界文学」という言葉を作ったのはゲーテ。
彼はシェイクスピアをドイツ語で読んで感動した。
すぐれた翻訳は何かを付け加え、文学的な価値はむしろ高まっている。
僕は以前から、翻訳者をたたえよう、と言ってきた。とても意味がある、そしてセンスの要る仕事が翻訳なんです。

「日本文学全集」のマッチングは、河出書房新社の編集部が知恵を出してくれました。
「源氏物語」は10種類以上、現代語訳があります。
最近だと瀬戸内寂聴、林望もあるが、もっと新しい訳がほしい。
ダメモトで角田光代さんに声をかけてみた。
というのも源氏物語の現代語訳、となると何年もかかるし、ほかの仕事もできない。源氏は長めの長編小説6冊分ぐらいあります。
しかも「翻訳」は原文を読んで、よくよく意味を取って調べ、現代語訳、という辛気くさい作業。
大変な手間なので、全集の最後の配本にしました。角田さん本人だけではなく、校閲も大変ですから。
角田さんは今、たいへんあぶらが乗りきっている作家です。
「八日目の蝉」などを読めばわかります。
彼女の担当編集者からは、これから3年先まで、角田さんは小説を書いてくれない、池澤さんのせいだ、と言われていますが(笑)。

翻訳の際の創作はどこまで許されるのか? という問題。
翻訳には制限があります。
その中で新しい現代語訳が上がって来ると、個性的なテキストが並びます。

<ここで、河出書房新社から発行の「日本文学全集」のうち、古典を現代語訳したものの中から、池澤さんみずからががいくつか朗読をする>

語っているのをみなさんが聴く、これが元々の姿です。
文学は文字ではなく「声」であり、朗読に向いているのです。

<伊藤比呂美訳の「日本霊異記」から朗読>

特別お話が上手な奴が話して聞かせて、人々が楽しんだ。それが文学の最初の形です。

<町田康訳の「宇治拾遺物語」から朗読。よく知られている「こぶとりじいさん」。
町田氏の現代語訳はかなりファンキー。
「おじいさんは鬼を見てパニック!」「ピンクやゴールドのフンドシの鬼たち」という言葉に聴きながら笑ってしまう>

現代語訳、としては町田康さんの文章、これぐらいが限界でしょう。
昔の人々がこれを読んで笑ったように、現代の人々が笑って読んでしまうように訳す、というのが町田さんのスタンスです。

<「今昔物語」は福永武彦訳を朗読。朗読の前に「この福永武彦っていうのは・・実は僕のオヤジなんですよ」と、一言>

<島田雅彦訳の「好色一代男」を朗読>

ちょっと刺激的なところは読めないので・・・(とあたりさわりのない、花魁の品定めをしている箇所を読む)。この好色一代男というのは生産的なことはなにもせず、3000人の女と交わり、あちこちのいわば「遊郭リポート」をしている。いくつもの人やモノを並べ、羅列して評するのは、日本文学の伝統と言えますね。「枕草子」はその典型でしょう。

<円城塔訳の「雨月物語」を朗読>

「安珍・清姫」の原型ですね。構造がはっきりしていて、その場の会話も流れるようになっている。円城さんは、それだけなめらかな文体で訳しています。

<島本理生訳の「春色梅児誉美」を朗読。 女性たちの会話が、まるで現代の若い女の子の「恋バナ」のように弾んでいきいきしたものになっている。>

江戸で文学が盛んだったのは、平和だったから。
パックス・トクガワーナです。遊ぶ余裕ができ、一般の人たちが手に入れた喜びが本を読むことだったんです。

村々の管理人として侍が赴く。
要するに、村ごとに、読み書きのできるインテリがいたわけです。
そして寺子屋ができ、読み書きそろばんを習う。当時、男だけでなく、女も字が読め本が読めるという国はなかった。
また、木版印刷の技術があって、本が安く作られるようになった。
活版印刷ではなく、1頁分、木版を作るやり方。この方法だと、絵が入れられるのが利点です。
本が流通して教養が行き渡ったところへ明治の文明開化、そして欧州式の文化が入って来るようになりました。

<ここでおよそ1時間半の講義が終了。学生から質問を受け付け、前の方にすわっていた女子学生から「作家の個性」についての質問。前半の「現代は一個一個に作家の名前がついているが、昔は個人の作品が一対一ではなく、作家名でなく、作品の面白さによって伝わっていた・・・」というくだりに対して池澤氏の答え>

小説はひとりの作家のものであるけれど、社会の空気が背景になる。
「個性一辺倒」でない、ふわっと全体をまとめるような本の読み方もあります。

<講演はここで終了。いちおうは「日本文学概説」という授業の一環なので、文学部の教授が出席票を配るが、わたしの顔を見て「日本文学概説の授業をとってないかたは不要ですから」と付け足す(笑)。たぶんおおかたは文学部の学生さんたちだろう。わたしはマイミクさん(以前からの友人でもあります)と一緒に最前列で聴講しましたが、若い学生さんたちの授業に潜入したので、いささか居心地が悪かった。
しかし、さすがに聴きごたえのある内容でした。関大の学生さんがうらやましい。
あと、講義の場所が大学のウエブサイトに「第1号館」と明示していたのに、実際は第2号館。教室がみつからずに右往左往して、近くの「就職支援センター」の事務員さんにたずねてやっとたどりつきました。こういうのは正確な情報を!
(12月11日・関西大学千里山キャンパス)
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