気付きがある、ということは、それに伴う進展もあり、もちろん幸せなことではあるのでしょうが、やはり、それは、その都度、その時々の、自分自身のやってきたことの「否定」になるので、やはり、それなりに、メンタルにも衝撃があります。
特に、今回の気付きは、基本の基本、最初にフルートを唇に当てた日にまで遡る出来事なので、こうしたことには慣れていたつもりではありましたが、最もショックなことでもあります。
いや、もっと学びのどこかで、もっと様々な可能性を試みるべきであったのに、あまりに「基本」に忠実すぎた。
それで、音が出てしまうのだからタチが悪い。
今回の気付きによって得られた音と、今までのものとの差は、天然ものと養殖もののタイくらいに違う。
今まで、過去40年培っていたのは、みな「養殖」だった・・という、自分が「養殖もの」であった、という気付きは、そりゃあ、がっくりきたって当たり前、というものです。
ちなみに、あの黄色の教則本『アルテ』の功罪は本当に多々。
日本で、最初に普及したフルート教本としての功績は、もちろん、誰しもが認めるところですが、あの本、そしてクヴァンツがほとんどのフルート奏法の『基本』となって語られているところが問題なのだと思う。
みな、それで、それなりに効果があるからこそ、信じてしまっているのだろう。
実際、こうやって夜空を見上げれば、動いて見えるのは月であり、星だ。
天動説のことを誰しも笑えない。知らない、というのはそういうことなんだ、と打ちひしがれた一週間でした。
また『良い例』『悪い例』は真に受けない方が良い。
良い、悪いと区分けしたとたんに、可能性の半分を失ってしまうことになるのだから。
地球が動いているかもしれない、という可能性を『悪い例』に放り込んでしまったのだから、そりゃあ、気が付くはずもない。
強いて言えば、その時々の「良い・悪い」であるし、人それぞれの「良い・悪い」なのに、それがメソッド化される、それも閉ざされたメソッドとなり、「これが基本」となってしまうところが大問題なんだと思う。
そして、人のいう事を鵜呑みにしちゃいけない、ということである。
天動説のことを私は笑えない。
「人間の身体と心の動きに適った奏法」を探しているけれど、こうして探せば探すほど、気付けば気付くほど、それは、本当に世間一般のフルート奏法の常識からかけはなれていくばかりで、それは、喜び以上に、大きな疲労感、徒労感ももたらす。
相当、遠いところに来たかな、と思っていたところで、今回、全然そうではないことに気が付かされた。
何故、もっと早く、こうしたことに気が付かなかったのか。
「精神の牢獄」という生簀は、本当に広くって、ヌクヌクとして、それなりに満足のいく、実に居心地の良い場所だった、ということか・・
まさに、「養殖もの」の嘆きです。
やっと養殖の生簀の網を破れたか??
いや、養殖ものだった、ということに気付けた、ということか。
果たして、この先、大海で自力で生きていけるのか?
と「養殖もの」としては、一抹の心細さもある。
・・・・・・
今回の気付きは、私にとってだけでなく、これまでお教えしたフルートの生徒さん10人にみな、大きな進展をもたらしました。
普通、あて位置を変えたら、急には吹けないし、すぐに対応は難しい。
でも、今回のものは、みな、その瞬間に対応でき、音も変化。
何より無理なく、無駄なく、まさに、今までなんと多くの無理な努力で間に合わせて吹いていたんでしょう?といった感想がでるくらいの違いです。
こちらが、人本来の在り様に適った奏法ではないか、とツクヅク思う。
でも「良い」「悪い」ではない。
とりあえず、目下、今の自分のレベルでは、これが良いのではないかな?というものです。
でも、吹き方も構え方も全く変わってしまって「え?こんなので、音出るの?」と不安になるくらいのあて位置と構え方の変化です。
ああ、生きているうちに気が付けて、そしてお伝えすることができて、本当に良かった、と思います。
嬉しいのか、つらいのか、よくわからない日記となりましたが、まあ、実際、マーブル模様の精神状態がずっと続いていた一週間でした。
ようやく、新しい水にも慣れてきたか、という本日です。
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