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2015年07月06日15:43

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「生きて帰って来た男〜ある日本兵の戦争と戦後」小熊英二(岩波新書)

社会学者の小熊英二氏はわたしと同い年。
彼の親も教師とか学者とかでインテリ家庭に育ったんだろうな、と勝手に思っていた。
しかし、彼の父謙二は1925年(大正14年)、現在の北海道佐呂間町生まれ。一家はもともと新潟に居たが零落し、北海道へ渡ってくる。

貧しさもあって、謙二は小学校に入学すると、東京に出ていた母方の祖父母宅に送られる。
謙二の6人きょうだいのうち、結核などの病気で4人が若くして亡くなってしまった。
早稲田実業に入学するも戦況の悪化で繰り上げ卒業、電気通信会社に入社して事務員になるが、1944年、19歳の時に召集され、旧満州へ。
敗戦後、シベリアに抑留され、チタの収容所で1948年7月まで暮らす。
しかし帰国後は結核にかかって療養所生活、その後も小さな会社への転職を繰り返したのち、東京で知人らとスポーツ用品の店を始め、ようやく生活が落ち着く。

いわばオーラルヒストリーなのだが、聴き取りの相手が、著者の実の父親、という点でこれは、少し異色の「昭和史」である。
しかしながら、近い存在であるからこそ聞きだせた小熊家の歴史が、リアルな日本人の生活史になっているし、産業構造や国策に生活が翻弄され変わっていく日々も、社会的考察上、貴重だと思う。

テレビドラマや映画で描かれる戦時中の人々の言動も、実際はだいぶ違ったものだったという。
シベリア抑留者が帰還の船に乗って舞鶴港を見て号泣、といったシーンがよく出てくるが、謙二は「陸地が見えて、ああ、日本か、と淡々としていた」のだと言う。

シベリア帰りで、結核患者だった謙二の戦後は、まさに「日々、とにかく生きていくこと」との戦いだったといえよう。安定した職に就けず、極貧とも言える暮らしぶり。小平市で3畳間に妹とふたりで暮らしていたそうだ。
ただ、「日本社会では一度、外れてしまうと外れっぱなし」とあきらめていた謙二が浮上するきっかけは、やはり高度経済成長だった。
日本人に経済的余裕が生まれ、レジャーのゆとりができると、それをビジネスチャンスに、スポーツ用品の外商で成功し、謙二は遅い結婚をする。

謙二の人生で異色なのは、同時期にシベリアの収容所でいっしょだった朝鮮人男性が、1990年代になっておこした戦後補償裁判の共同原告になったことである。
1988年、シベリア抑留者への慰労金を受けた謙二は、その男性が現在は日本国籍がないゆえに、慰労金の対象とならないことに義憤を感じ、裁判にかかわることになる。

戦前、インテリではなく、戦後もひたすら生きるために働きづめで、政治運動をやったわけではないが小熊謙二という人物は、正しい道とは何か、を峻別する良心を内包していたのではなかろうか。
シベリア抑留の経験から、ソルジェニーツィンの著作も読み、アムネスティの会員となり、ソ連に政治抑圧を受ける、ポーランドの連帯運動に共鳴していたという。

社会学者の息子ならではの、小熊英二氏の指摘もある。
零細の事業所をいつも短期間、転々として働いていた自分自身を、謙二が「サラリーマン」と言っていることについて、
高度成長期以降に流布した、「サラリーマン」のイメージは、決して日本人の生活実態を反映していない、ということだ。大企業型の雇用形態は、日本就業者数の2割未満である。
しかし、いっとき「終身雇用、妻は専業主婦」の「1億総中流」が強くイメージされていた。
それを「マスメディアに勤務していた高学歴層が、自分や自分時の同窓生たちのライフスタイルを、社会全体の平均像だと思い込んで、メディア上で“サラリーマン生活”のイメージを拡散したこと、所得が上昇した労働者家庭が、ほかにモデルがなかったため、表面上だけでも“サラリーマン家庭”の生活スタイルを模倣したこと」が理由だと分析している(本書300頁)。
長く「零細企業」で働いていたわたしなども、まさに同感。

小熊謙二氏は今年90歳になる。シベリアの寒さと栄養不良で生きながらえたのは奇跡と語り、ペニシリンが一般に出回る前にろっ骨を切って片肺を取る手術を受けたにも関わらず、生き延びて、息子は日本でも著名な社会学者となった。
そしてこういう本を上梓できるとは、小熊英二氏は、最高の親孝行ではないかとわたしは思うのだ。
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