「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」(黙 1-2)
黙示録は聖書に収録されている最後の書物だ。ヨハネはこれを書いた時点で、聖書として編纂される66巻の最終章になるとは知らずに創世記とリンクした預言を載せている。聖書が神の御霊を受けて書かれた証しとなっている。
新しいエルサレムとはイエス様が再臨された後の都を指す。キリストを信じ受け入れた者は皆この新しいエルサレムに招き入れられる。その中央を命の水の川が流れている。エデンの園にも川が流れていた。命の川とは私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出るとキリストがサマリヤの女に告げたあの水と同じだ。エデンの川は命を維持するために、命の川は命だけではなく霊を潤し清く保つために必要とされる。
さらに、命の川の畔には様々な木があり、豊富な果実を常に実らせている。その中には命の木もあった。ここでもエデンの園との類似が見られる。人は禁じられた知恵の木の実を食べて、また命の木の実にも手を出すといけないとエデンの園から追放された。つまり追放された者が罪の束縛から開放され、命の木から好きなだけその実を食べられる状況を描いている。これは人類の救いの完成を描いていると思える。神と共に生きる国において隠された奥義は何もなく、全て必要な知恵は与えられ、罪の堕落もありえない世界なので知恵の木はこの世界には存在しないようだ。
ここで興味深いのは、川が命の根源であり、希望であり、輝いていることだ。一般の通念にあるようなこの世とあの世を隔てる別れの川でもなく、黄泉の国のイメージは暗いけど、クリスチャンが入ることを許された新しいエルサレムは決して絶望の果てではなく、希望に輝くところだと言うことだ。
「その木の葉は諸国の民をいやした」と書かれた「癒し」は言語ではセラピーの語源となる言葉が使われている。その意味は、健康を与える、共にひとつのことに取り組む、神に尽くすと多岐に渡る。健康が約束されているから、新しいエルサレムには病も衰えもない、ひとつのことに共に取り組んでくださる方は神ご自身だ。だから失敗はない。新しいエルサレムは怠け者の国ではない。神に仕えることでいつも魂が洗われ、喜びに湧き上がって生活できる所。
神は実にエデンの園以前に罪の故に呪われた地からの開放を計画されていた。しかも救いは再臨の日にもまだ閉じられてはいない。何と言う主の忍耐と恵み。ほめたたえよ、主の御名を。
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