「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いてただ聞くだけのものであってはいけません。」(ヤコブ 1:22)ヤコブは御言葉の実践をことさら強調している。聖書の他の箇所では信じれば無条件で救われる。行いによって救われるものはいないと繰り返しているのにヤコブ書では矛盾しているような発言を繰り返す。これはどうしたことだろう。結局キリストに救われた者は救われた状態に留まらずに変えられるということなのだろう。宗教的な範疇においてクリスチャンに義務はない。聖書を読む、祈る、礼拝を守る、献金をする、他人に親切にするなどどれひとつ義務感に縛られて守っても意味はない。神はそのことをお見通しだから。義務感で実行しているうちに本当の気持ちに変わることもあるので、その意味では無駄だとも言えない。キリストは何のために死なれたか思い返してみよう。力がなくて自分では何もできない人をすくうために。少なくても何でもできると誇っている人にキリストは必要ない。パウロが律法を完全に全うしている自分を誇っていた時にはキリストが必要なかったように。キリストの十字架はできない人のできないことに対する贖いとして存在する。「彼らは何をしているのか分からないのです」ということばを思い返してみよう。完全でない者を赦すという意味に等しい。立派なクリスチャンとはいえない人を神は赦す。信仰とは今できないことができるように変えられていくことでもある。少なくても今できないことを自認してできるように変えられる事を願おう。それだけでも一歩前進する。ヤコブはこの手紙のはじめをキリストのしもべが挨拶を送るという文章で始めている。弟と書いた方が箔がついて注意深く読んでもらえる可能性が高かったのに自分をしもべと呼んだ。信仰の力が働くところに箔は必要ないと考えたのだろう。できないことをできないと言うのは正しいし、できるように大きく見せる必要もない。ただしできることをしないのも正しい信仰を継承しているとは言えない。怠けないで、できることを実行する努力は良いことだ。聞くだけでは忘れてしまう。できることを自分の生活の中で実践しよう。実践するのは自分だがそれを成長させ、実をつけさすのは神の力だ。だから今実践できないことは恥ではない。謙遜になってできるようになる事を祈ろう。
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