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2017年07月30日09:39

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心穏やかに聖日を迎えるために

「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ 5:23-24)

さっと読んで分ったつもりで先へ進んでしまいそうな聖書箇所だが、ここにはかなり重要な事柄が隠されている。まず、読み方次第ではこの箇所は礼拝をするよりも、優先順位としては仲直りする方が先だと語っているようにも捕らえられる。神殿に詣でて、供え物をするのはユダヤ教に則った教えだ。冒頭の聖書箇所はイエスさま自身が語られた言葉だが、この時点ではキリスト教の教会はまだ誕生していなかった。さらに、この時代の神殿詣では近所の教会に足を運ぶのとは全く違う。イスラエルの各市町村から一週間もかけて徒歩でエルサレムの神殿に向かって来るのだ。祭壇の前まで来て、忘れ物をしたからそれを取りに戻るのと同じで往復2週間の無駄足を強いることになる。

しかも問われていることは、兄弟に恨まれていることを思い出したならと言う条件だ。自分が誰かを恨んでいるとは言われていない。もしかしたら自分が恨まれていることさえ気付いていないかもしれない。それでも、神殿の前まで来て、ひょっとしたら何かあいつに嫌われるようなことをしてしまったかなと首を傾げるようなことが起こったらと言う事なのだ。原因が自分なのか何かほかの事か分からないが、何か最近よそよそしくされていると感じている気がしたならば、直ちに和解せよと言うことだ。自分が相手に対して悪いことをして怒らせてしまったなら、自分で分らないはずはない。明らかに自分が悪いのだから謝罪しなければと思いつつ放置して人間関係が崩れることは往々にしてある。これは本来直ちに謝るべきことだが、ここでは相手の自分に対してわけのわからない怒りを感じたら、率先して相手の怒りを静める努力をしなさいと言う事なのだ。

何と理不尽なことだろうと思う。しかし理不尽な理由で人類の罪の贖いのために十字架に架かり永遠の命と希望を与えてくださった事の方が想像を絶する犠牲だったのも事実だ。キリストは罵られ、敵対され、蔑まれ、それでも全ての人を一方的に神の愛へ導かれた。今も導いておられる。

聖書に書かれている兄弟は肉親ではなく同じ信仰を持つ者を意味し、隣人はある人の知り合い全てを指す場合が多い。そう言う人間関係の中で暮らしている以上、衝突は頻繁に起こりえる。壊れてしまった人間関係の修復を祈る人は多いだろう。でもキリストはここで、祈りよりも何よりも、自分で誠心誠意関係の回復のために努力しているかどうかを問われているのだと感じた。御利益信仰ではいけない。神に任せっぱなしで、自分ではひとつも努力しないのは間違っている。全能の神と罪人の自分、力の差は目に見えている。それでも神は二人三脚で進まれる道を選ぶ。全てを神に委ねる、素晴らしい信仰だ。しかしキリストの愛に呼応して、自分でできることをすることも大切だと改めて感じさせられた。神は愛されたから愛し返すのではなく罪人の私を迎え入れてくださった。同じように、自分が納得できるから行動するのではなく、神が自分にしてくださったことを誰か他の人にもしてあげられる力を頂きたいと感じた。





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