mixiユーザー(id:16255101)

2017年02月26日09:55

316 view

死んでからでは遅い悔い改め

「彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』」(ルカ 16:27-29)

聖書の中でも有名な箇所だ。冒頭の彼とはアブラハムの事だ。聖書全体を通して多くの預言者や義なる人が召されたが、天に引き上げられた死者の声が具体的に聞こえるのは聖書の中でここだけだと思う。ラザロは食べる物にも困った貧しい人で、私とはある金持ちとあるだけで具体的な名前は書かれていない。金持ちは自分の富を自分の人生を楽しむことに使い、家の門の外にいたラザロにパンひとつ分け与える気持がなかった。

このふたりが死んだ時、ラザロはアブラハムと共に天の高い所にいて、金持ちはいわゆる地獄のような所で苦しんでいた。金持ちは、貧しい人を憐れんで施しをしなさいという戒律に従わなかったともいえるが、ラザロが正しい人であったとはどこにもかかれていないことに気付いた。それでも天で寛いでいる状況が分かる。ここに描かれている天と地の中間にあるような天国と地獄の様子は当時のイスラエル人の認識に基づくもので、必ずしも真理だと思う必要はない。

ここで目を留めたいのは金持ちにも肉親に対する憐れみがあったと言うことだ。自分に特にならないことは縦の物を横にするのも面倒くさがる人がいる。でも兄弟や子供が頼めば手を貸してくれるかもしれない。聖書の別の箇所に返礼ができる人を食事に招待しないで、返礼もできない人を招きなさいとある。その報酬は天にある、まさにそれなのだろう。

金持ちは自分の苦しみが生前の無慈悲な心の故と諦めたようでもあるが、自分の兄弟たちが同じ境遇に陥らないために、悔い改めるように天からラザロを遣わして欲しいと願ったが時はすでに遅かったようだ。

旧約の時代のイスラエルで聖書を知らない人はいなかった。それで何の行動も起こさない人に何を言っても無駄だとアブラハムは断言した。聞いても受け入れない人には案外冷たい反応だとも思えるが、これが神の領域に入れる一線なのだろう。そこで考えたのは今自分が聞いて受け入れたこと事態が自分の決断でも意思でもない、根底は神の恵みだと言うこと。

そして信仰は知識ではなく、聖書を実行することにあると言う事だ。自分の身の周りの人に不幸が訪れることを願う人はいないだろう。とすれば自分が御ことばを伝えなければ、自分が死んだ後に誰が取り繋いでくれるだろう。他の人が、天からとあてどもなく望みを抱いている場合ではないのではないだろうか。そして目の前にいる困っている人の中にキリストを見るなら、手を差し伸べないわけにはいかないと思う。もっとも小さい者にした事は私にしたことに等しいと言われたキリストの教えを実践しよう。そんな力は急に湧いて来るものではない。日頃の祈り心が大切だ。




5 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する