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2016年10月23日09:56

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行いに表れる信仰

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。」(マタイ 21:28-30)

冒頭の聖書箇所の兄弟の発言は自分の気持を正直に表わしている。このふたりの中で親に素直で良い子だと思われたのは弟の方かもしれない。嫌なことを嫌だと言うきっぱりした性格も見方によっては爽やかだ。しかし、表面的にその場を取り繕って、上手に荒波をかわす処世術は果たして褒められるのだろうか。

人の行いは気分に左右される。気分が乗った時だけ学校へ行き、宿題を片付け、親の手伝いをする。多分20歳頃までみんなそんな風に過ごしていると思う。しかし、このままでいいのだろうかと考える時期が来る。クリスチャンとして生きようと決心するのにも時期があり、考え直した結果だろう。

信仰と言うと辛気臭いとか、いろいろ自分の行動に制限されて面倒と考える人が多い。でも実際は楽な事の方が多い。冒頭の物語の父親はふたりの息子のどちらかを罰しただろうか。そうは思えない。あれをしろ、これをしろ、は躾けの一環で憎んで押し付けているわけではない。神も同じだ。否、それ以上だ。神は間違った判断をしないからだ。神から何かを促される時にはそれに従った方が楽に道が切り開かれる。自分で全てできると思うと逆にとんでもなく苦労する。だから神に従う人は人生のあらゆる面で得をする。

この物語は宗教的な指導者の立場にある人たちに語られた。つまり宗教的に立派であるように振舞っている人たちだ。神はそれを偽善とみなした。立派に見えることは重要ではない。どんな身なりでも、容姿でも関係ない。神の御心に従う者を神は喜ばれる。

信仰は見掛けではない。聖日礼拝を欠かさないこと、聖書に親しみ良く祈る人、それはもちろん素晴らしいことだが、本当の信仰は日常生活に反映する。聖書の教えが実生活に変化をもたらさない信仰は見かけ上どうあれ、あり得ない。ただし、生身の人間だから、あれをしろと言われて「今度やります」とか「それだけは勘弁してください」とのらりくらりやり過ごすことがある。神はそれでも赦してくださるが、神の救いの支配の中に全てを委ね、御手の中で生かされている人生を楽しみたいと願う。

サッカーの選手ではないけれど、100%JESUSを掲げて神の業が自分を通して表わされたらどんなに素晴らしいことだろう。世に知られるような業績を残せなくてもいい。神がそれを御存知だから、それだけで。





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