「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ 43:4)
あまりにも有名な聖書箇所について感じることがあった。まず目に留めることは、あなたに語りかけた神のことばだと言うこと。ここでは神は人を個別の存在だと認識していることを明確に表している。あなたは単数形だからだ。確かに神はひとりひとりを高価で尊い存在として創造されたのだ。
誰一人同じ人はいない。だからひとり欠けても他の人で補うことはできない。ちょうど親が子供に対して持つ気持と同じだ。子供が10人もいればひとりぐらい欠けてもいいとは思わない。たとえできが悪い子だと思っても、いらないとは決して思わない。
冒頭に「わたしの目には」と書いてある。つまり他人がどう評価しても神である私の考えはこうだと述べている。大事なことは神が愛している人を憎んではいけないと言うことだ。神との関係を深めながら、神が愛する他の人をないがしろにしてはいけない。人はとかく似たもの同士が集まり、小さなグループの中で平和共存できればそれで良しと思いがちだがクリスチャンにとっては全く違った考えを持つ人にも隣人愛を示せと命じられたに等しいと読み取る必要があるだろう。
次の「国民をあなたのいのちの代わりにする」の国民は具体的にはエジプトを指すが、これはイスラエルの歴史的背景を知らないと理解できない。神はイスラエルを選ばれた。イスラエルの贖いのためにどんなことでもする。それは今も変わらない。なぜイスラエルだけと思う必要はない。どこの国の人でも神を信じる者は霊的な意味でアブラハムの子孫とみなされる。
さらにひとりの人を救うために、神はひとり子イエスを犠牲にした。それはこっちの人を助けるついでではない。たとえ世界にあなたひとりしか存在しなかったとしてもイエスの贖いは必然だったと聖書は教えてくれる。
世の中悪いことばかり起こるし、自分の苦境にも神は目を留めてくれないと言う人も多い。それはなぜか。キリスト教は御利益宗教ではない。信じれば病気にかからず、経済は安定し、人間関係に苦しまずに人生を謳歌できるとは言わない。信じても苦難は来る。しかしそこにも神の愛が注がれている。残念ながら救い、恵み、癒しなどは信仰の目を通してでないと見えないことも多い。信仰の目を通せば、日々に、どんな苦境に置かれても、そこに神の愛があると肌で体験することができる。
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