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2016年03月06日09:10

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神の栄光を現すために

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(Iコリ 6:20)私の救いのためにキリストが命を捨てて贖いの業を終えられた、そう信じているのがクリスチャンと呼ばれる人だ。2000年前のあやふやな出来事と評する人もいる。しかし要は信じるか信じないかであって、科学的な裏付け云々は関係ない。神は永遠の存在だ。今も昔も永遠に変わらない。クリスチャンは神の化石を祀り上げて拝んでいるわけではない。今も生きて働いている神を礼拝している。つまり、2000年前の約束は今なお有効で、聖書に書かれたすべてのことを成就する責任を神は負っている。私を買ったのは神だ。つまり私の所有権は神にある。けれども自分をどう用いるかは委託されている。子供を所有物のように扱う親がいる。自分の体をあえて傷付ける者がいる。これはクリスチャンには許されない。なぜなら、両方とも預かりもので自分のものではないから。借りたものを返す時にはきれいな状態で返したい。そう、地上での役割を終えた時、肉体は滅びるが霊は天国に引き上げられる。冒頭の御ことばの「神の栄光を現しなさい」という部分が曖昧模糊としている。一体どうしたらそんな生き方ができるのか。誰が見ていなくても、損しても正しく生きろということなのだろう。友人が悩んだあげく仕事をやめた。福祉関係の仕事で助成金を貰うために汚い手を使っていることがどうしても耐えられなくてとりあえず退職した。まだ若いし、妻子がいるわけでもないという事情はともかく、彼なりに神の栄光を現したのだと思う。聞いた話しだが、仕事の成功報酬として怪しげな所に誘い出された社員がいた。彼はそこを抜け出し、身動きできないように自分を縛った。クリスチャンだから誘惑に負けないと言うことはない。そこまでして身を汚すことを避け神の栄光の現われを求めた。それほど強くないクリスチャンはどうしたら神の栄光を現せるか。まず、自分は裸で生まれたことを認識しよう。命もお金も知識も、すべて後から与えられたもの。信仰のために命もお金も要らないとは言えないが、それらはどう用いるかを委ねられているものであって自分のものではない。それを意識すれば命もお金も無駄には使えなくなる。それだけでも神の栄光を現すことにならないだろうか。すべてのことは許されているがすべてのことが有益なわけではない。根本をしっかり握って行動すれば、神の栄光のために何ができるか、その時が来たら神が教えてくださるだろう。




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