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2016年02月14日09:11

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愚かさを誇りとする

「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。」(Iコリント 3:18)詩篇にこう書かれた箇所がある。「主は、知者の議論を無益だと知っておられる」。よく学び人々を指導する人物になりたいと願うのは間違っているのだろうか。そんなことはない。しかしその過程において利益優先、自己中心に陥りやすいのも事実だ。問題の解決の糸口は自分が握っていると考える者が寄り集まって議論してどんな解決ができるのだろうか。世の中の政財界の現状を見れば良い。頭の良い人が集まっているが果たして世の中が正しく良い方向を目指しているとは見えないのが現状だ。人間の築き上げた知識の蓄積は尊重すべきものだが神の知恵には遥かに及ばない、それが聖書がここで語っていることだ。神は自分で自分の罪を赦す事のできない人間をキリストの十字架の犠牲によって救おうと計画した。人は人に対して自分の罪を隠せても、神の御前ではすべてが白日の下に晒される。こんな人間を神は滅びても良いとは考えずに憐れみ、愛し、御子が十字架にかかって罪人の身代わりとして死ぬという救いの道を切り開いた。それが神の愚かさであり、究極の愛の御業だと知る、それこそ聖書が語るこの世にあっての知者の姿と言うことになる。自分が最後にどうなるか不安に感じる中で築いた富や栄誉がどれほどの慰めになるだろうか。人は自分を正当化することで人生を全うしようと考えがちだ。しかし神の前に自己放棄し自分の存在は自分のものではなく神のものだと知ることが最大の知恵だと教えている。自分が自分に属するものではなく、神のために存在していると信じる時、自分の生きる道も死んだ後のことも見えてくる。キリストが自分の罪のために死なれ救いを完成させた。このことを臆せずに語ろう。人の間で見えない事柄をさも事実であるように語る愚かさこそ神にある知恵を知る者とされる。自分は自分ではない、キリストの体の一部分としてキリストの働きに参与する、これ以上の恵みはない。




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