「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。」(ピレモン 11-12)
これはパウロがかつてピレモンの奴隷だったオネシモに関してピレモンに書き送った手紙で、新約聖書の中では一番短い書となっている。ピレモンは主人の物を盗んで逃亡を図った奴隷だ。オネシモはローマにたどり着きそこでパウロと出合ったようだ。その辺の詳細は聖書に書かれていないが、パウロから福音を聞いて、受け入れた時点で自分の生い立ちの全てをパウロに告白し、聖書を学びパウロの動労者として共に福音宣教に携わった人だ。そのオネシモを福音宣教のために元の主人の所に送り返すので受け入れて欲しいと頼んでいる。
当時の律法では逃亡奴隷は捕まり次第主人に殺されても文句を言えない存在だった。そのためパウロはオネシモが昔は役に立たない者だったかもしれないが、今は役に立つ者に変えられたので仲間として快く受け入れてくれと頼んでいるのだ。その上、もしピレモンに金銭的な損害が生じているなら、その損害はパウロ自身が清算すると申し出ている。
直接聞いた話しではないが、薬物障害者更生施設を卒業して、牧師になる勉強をしている人がいる。その人が過去に犯した犯罪をうやむやにしたまま牧師になるのは良くないと思い警察に申し出た。調査した結果、時効が切れていて、被害者の存在も不明になっているために立件できない。罪にはならないので帰ってくれと言われたそうだ。
それと同じだ。過去に何をしても、キリストを信じる者は全てキリストの十字架の故に神の赦しを受ける。神に赦された者を人が赦せないと言うのは神の目には傲慢と映る。キリストを受け入れた者は全ての罪を赦された経験を持つ。それなのに人を裁いたり、蔑視したりすることは正当とは言えない。ただし、地上の法律によって裁きがある場合は地上に生きる限り判決に従わなければならない。
この短い文章の中でも多くのことを学ぶことができる。パウロはオネシモを「私の心そのもの」と呼び、ピレモンにも頼んでいる。パウロにとってピレモンは一番弟子で、オネシモは弟弟子であると同時に動労者だ。これはキリストにあって等しく子であり、喩え以前の素性がどうであれ、上下の差はないと言うことだ。これは教会のあり方でもある。牧師は主管者で信徒をまとめる役割を担っているが、牧師と信徒の間に上下関係はない。
今どんな状況であっても、キリストに全てを委ねれば、全ての罪は赦される。生まれ変われるのだから悲観することはない。オネシモのように、過去の身分が奴隷で、盗人でも、その事で誰かに非難される事はない。牧師になるとか、立派な信者になるとかでもない。それは神が導き、神が成就することだ。唯キリストを信じて従おうと決心する時神はその人の内に働かれる。パウロ自身もキリスト教の最大の迫害者として十二弟子から恐れられた人物だが、最期にはキリスト教最大の功労者として殉教の死を遂げている。
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