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2018年12月14日00:15

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マルセル・デュシャンと日本美術 / 東京国立博物館

12/8(土)、都美でムンク展を観たあと、トーハクへ移動。
平成館の2階では、右側で「京都大法恩寺 快慶・定慶のみほとけ」展を、左側では「マルセル・デュシャンと日本美術」展をやっている。
事前に決めていた通り、私は「階段を上がって」左へ。
この実に興味深い展覧会は翌日で終了、滑り込みである。

・会期 10/2〜12/9

デュシャン作品と関係資料コレクションにおいて世界一の規模を持つフィラデルフィア美術館の国際巡回展が、今展の第1部になっている。絵画作品、資料・写真含め全約150点。

東京のあとは、以下のように回る。
・韓国・ソウル 国立現代美術館 ’18.12/22〜’19.4/7
・シドニー・オーストラリア ニューサウスウェールズ州立美術館 ’19.4〜8月

今展第2部は、それにトーハクが付け加えをした企画である。国宝含む自館所蔵品24点による。

構成は以下の通り。
◆第1部 マルセル・デュシャン没後50年記念「デュシャン 人と作品」

第1章 画家としてのデュシャン
第2章 「芸術」でないような作品をつくることができようか
第3章 ローズ・セラヴィ
第4章 《遺作》 欲望の女

◆第2部「デュシャンの向うに日本がみえる。」

第1章 400年前のレディ・メイド
第2章 日本のリアリズム
第3章 日本の時間の進み方
第4章 オリジナルとコピー
第5章 書という「芸術」

何故この展覧会を愉しみにしていたか、一応それに触れておきたい。
今年5月にベルンハルト・シュリンクが2014年に書いた『階段を降りる女』(松永美穂訳/2017新潮社クレストブックス発行)を読んだ。
参)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1966762552&owner_id=3341406

小説であるから人名は変えているが、これにはあるからくりが存在する。
登場人物の1人、画家シュヴィントが描いた〈階段を下りる女〉が物語のキーになっているのだが、現代ドイツ画壇の大物ゲルハルト・リヒター(1932- )には《エマ。階段を下りる裸婦》 (1966)というフォト・ペインティング手法の具象画がある。(《エマ(階段の上の裸体)》と表記する場合もある。)

作者シュリンクは、小説が終わった次ページに下のような「注」を書き込んでいる。
・・・階段を下りるイレーネの絵は、多くの読者たちにゲルハルト・リヒターの「エマ。階段を下りる裸婦」の絵を思い起こさせるだろう。実際、その絵が印刷された絵はがきが、ときおり他の絵はがきや写真と交代しながら、何年間もぼくのデスクの上にある。だが、ゲルハルト・リヒターと、イレーネの絵の作者には、何の共通点もない。カール・シュヴィントは架空の人物である。・・・

そして、小説中では、この絵のモデルとなったイレーネにこう言わせている、
「あの絵はマルセル・デュシャンに反論するものなのよ。『階段を下りる裸婦』っていう絵、知ってる? キュビスムで描いた人体で、下りる動作が分解されていて、足や腰や腕や頭が回転している絵だけど? デュシャンの絵は絵画の終焉とみなされたけど、シュヴィントは階段を下りる裸婦を昔と同じように描いてもいいんだと証明したかったのよ」。

シュヴィント=リヒターというモデル小説を書こうとしたのではない事は「注」から判るが、デュシャン → リヒター → シュヴィント(シュリンク)という構図は興味深い。
作品画像も添え、敢えて簡素にチャート化すると以下のようになる。

フォト

マルセル・デュシャン(1887-1968) 油彩《階段を降りる裸体No.2》(1912)
(今展では「裸婦」でなく「裸体」という表記をしている。)

フォト

ゲルハルト・リヒター(1932- ) 油彩《エマ。階段を下りる裸婦》(1966)

ベルンハルト・シュリンク(1944- ) 小説『階段を下りる女』(2014)

つまり、デュシャンが1912年に描いたキュビスムの絵画が、1966年にリヒターにフォト・ペインティングによる具象画を描かせ、その事にインスピレーションを受けてシュリンクが2014年に小説を書いた、という事になる。
不思議な事に、3者の間には同じように約50年の歳月がある。
それはともかく、デュシャンの作品は、100年後の今も芸術を揺り動かしている、そう言う事もできるだろう。

前置きが長くなったが、そんな興味を抱いて、今展を訪れたという次第だ。


マルセル・デュシャンは少年時代から絵を描き始めた。
今展第1部・第1章は、1902年/15歳の印象派風風景画から始まっている。
兵役ののち、様々な画風を舐め、1910年代からキュビスム風の絵画を描き始めた。そして1912年/25歳には早や件の《階段を降りる裸体No.2》を完成させ、アンデパンダン展に出展する。
超特急の歩みである。
そして、殆どこの年にデュシャンは絵画制作を止めてしまう。
所属していたキュビスムグループ内部から起こった《階段‥》についての批判に、彼は憤慨して展覧会から出品を取り下げてしまう。
翌1913年、ニューヨークで行われたアーモリーショーに同作品他を出展、スキャンダルを含めつつ、デュシャンの名は大いに広まった。

第2章では、その後のデュシャンの歩みを紹介している。
「レディ・メイド」という言葉を作り、それに従った作品として、《自転車の車輪》(1913/展示品は1964レプリカ)、《泉》(1917/展示品は1950レプリカ)を出展する(しようとする)。
これらで、デュシャンは芸術の枠を押し拡げ、旧い伝統から一気に飛び出す。
1915年にはニューヨークへ移住。

「レディ・メイド」は「既製品」という意味だが、デパートで買った自転車の車輪を、これもデパートで買った丸い木製の椅子の上に取り付けたもの、それを第1号として発表した。
ある特定の機能を持った物品を、本来の日常的使用法から切り離し、「芸術作品」として「意味づけ」をしたのである。
芸術作品は、高度な技で制作される世の中にたった1点しかないもの、そこに人は価値を見ていたが、デュシャンは、「レディ・メイド」により、困難な手仕事を通してのみもたらされるるありがたいものという固定観念を打ち破り(揶揄し)、また芸術作品は1点のみという概念を否定した。
それそのものが美しいかどうか(絶対的美の存在)が問題ではない、観る人が考える事、それを促す事が重要だとした。「観念としての芸術」という言い方でそれを表現した。
デュシャンのこうした主張により、現代芸術はその範疇を様々に拡大した。コンセプチュアル・アート、ポップアート、オプ・アート、ジャンクアート、アサンブラージュ等々、デュシャンの影響を見つけ出せるジャンルは極めて多い。
そういう訳で、彼が(伝統的な)西洋美術を終わらせたとも、「現代美術の父」とも言うようになった。

展覧会は一部を除いて写真撮影可だった。下の2枚は私が撮影しもの。

フォト

《瓶乾燥器》(1914/展示品は1961レプリカ)
トタン板製でワイン瓶を多数乾燥できる既製品。

フォト

《泉》(または《噴水》)
R・Muttの署名入り男性用小便器。
ニューヨーク・アンデパンダン展に匿名で出品しようとしたが、議論の末、結局展示される事はなかった。
デュシャンは当展の展示委員であったが、抗議文を新聞に発表し、委員を辞した。
アンデパンダン展は規定料5ドルを支払えば誰でも出品できる無審査の展覧会だった筈なのだが。

第3章の「ローズ・セラヴィ」とは、1920年にデュシャンが作り出した自分の分身女性の名。
1921年、実際女性に扮しダダの盟友マン・レイに撮影させ、その画像を様々に活用した。
フォト

しばしばローズ・セラヴィ名でダジャレや語呂等遊びの多い文章を書き発表。
レディ・メイド作品にもその名を使用した。
例えば、《美しい吐息、ヴェール水》(1921)なる香水瓶にはローズ・セラヴィの写真を載せたラベルを貼った。

元々“Rrose Sélavy”は、フランス語の”Eros, C’est la vie”(エロス、それが人生だ)の語音をもじったもの。

第4章の《遺作》は、晩年の20年間の創作活動を紹介している。
デュシャンは後半生、手仕事や制作そのものを殆どしていないと世の中からは見られていたが、密かに創作をしていた。それを通称《遺作》と呼んでいる。本人の付けた正式名は《与えられたとせよ、1.落ちる水 2.照明用ガス》。
結局未完に終わったが、死後その制作メモが発見され、残されたパーツ類をフィラデルフィア美術館に集めて組み立てられた。
今展では、それを映像化したものと、多数の関連資料が観られる。
如何にも古い門塀の覗き穴から中を見ると、遠くに滝のある風景、その最前景にランプを持った裸の女性(実際はマネキン)が横たわっている。
覗き穴の位置と、女性の変な横たわり方で、見える範囲は限定される。制限されると、人は欲望を昂揚させるものらしい。

この章にはその他多数の写真資料も展示されていて、一番面白かったのは以下。
フォト

《階段を降りるデュシャン》
1946年に雑誌カメラマン ゲオルク・ケルガーが撮影したもの。(図録よりスキャナーで録り込み。)
デュシャンが裸でなくて良かった(笑)。


第2部「デュシャンの向うに日本が見える」は、第1部でデュシャンにより囚われのなくなった目によりもう一度日本美術を観るとどうか、というのがテーマである。
鎌倉時代からの様々な作品が並ぶ。

第2部・第1章は、「伝」千利休の《竹一重切花入 銘 園城寺》(安土桃山時代・1590)他。
利休は天正18年の小田原攻めに同道し、伊豆韮山の竹を切ってこれを作ったと言われている。大陸伝来の磁器・陶器が最高の価値を持っていた時代に、こうした自然のものを使って、茶の湯を愉しんだ。美意識と価値の転換がここにある。これを究極の「レディメイド」と観る事もできるのではないか。

第2章は浮世絵。
日本の絵画は古来記号化された形象によって事物を表現してきた。つまり、リアリズムは殆ど求められる事がなかった。
リアリズムを超克するのに、西洋美術は大変なエネルギーを要し、デュシャンの登場には強い障壁があったのだが、日本は全く違う。
東洲斎写楽と喜多川歌麿の重要文化財他。

第3章は絵巻物。
日本の絵巻物に独特の異時同図法と《階段を降りる裸体No.2》の時間の表現比較は面白い。
国宝《平治物語絵巻》より〈六波羅行幸巻〉(鎌倉時代・13世紀)他。

第4章はコピーという事。
西洋の伝統芸術ではオリジナル、唯一無二という事が最大重要事だった。
しかし、日本には自然にしても人間にしても、見て描くという手法はなかった。粉本(手本)を模倣する事が第一人者への道だった。
ここでは俵屋宗達の《龍図》と狩野探幽の《龍図》を観る。同じ江戸時代・17世紀でも、時間は相当に離れている筈だが…。
デュシャンの伝統破りの方法は、不思議にも日本ではある一面で共通点を持つ。

第5章は「書」。
日本では「書」と絵画や工芸が密接につながり、新たな芸術フィールドを培った。
意味を示すという「書」の基本機能から、別の美を日本人は作り出したのである。
本阿弥光悦作 国宝《舟橋蒔絵硯箱》(江戸時代17世紀)他。
 

〈参考資料〉
・『階段を下りる女』ベルンハルト・シュリンク著
・図録『デュシャン 人と作品』マシュー・アフロン他著、 '18.フィラデルフィア美術館発行
・[ぶらぶら美術・博物館]『マルセル・デュシャンと日本美術』ディレクター 森本展寧、 '18.11/6 BS-日テレ放送
 

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