84年サマー・ファイト・シリーズ開幕戦となった6月29日、後楽園ホール(テレビ生中継)の試合前に会見がありました。
坂口副社長、山本小鉄審判部長が会見に臨み6月14日、蔵前国技館におけるIWGP優勝決定戦で無法乱入を行った長州に対し今後の乱入禁止、数試合の出場停止処分、さらに維新軍の解散を求めました。
また、当日のメインレフェリーを勤めたミスター高橋にも出場停止処分が下されています。
維新軍の解散を「求める」というのはあくまで「求める」に過ぎず、含みを持たせた内容であり、長州がこれを不満に思い実力行使に出るであろう、というアングルでした。
実際は長州に非はない訳ですから。
また、テレビ朝日ワールドプロレスリングメイン実況の古舘伊知郎アナウンサーが6月末をもってテレ朝を退職、フリーとなることになりました。
過激な実況でゴールデンタイムのプロレスの黄金期を作り出した担い手の1人であった古舘は、77年4月、立教大学を卒業後、NETからテレビ朝日に名称変更したばかりの全国朝日放送株式会社に新卒で入社。
当時テレビ朝日が80年モスクワ五輪の独占放送を行うことが決定しており、アナウンサーを大量に採用する方針になったこともあり、テレ朝に応募。
試験官となったのはワールドプロレスリングメイン実況の舟橋慶一アナ。面接とテストで古舘の才能を見抜いた舟橋は古舘を採用。
舟橋はモスクワ五輪チームに組み入れられプロレス実況から外されることが決まっており、後継者として古舘を指名。
古舘もプロレスファンだったこともあり、ワールドプロレスリング実況を希望していたこともあり、入社後の新人研修が終わるとスポーツ局に配属になりました。
4月のゴールデン・ファイト・シリーズから舟橋の鞄持ちで新日本プロレスの巡業に帯同、コーナーリポーターからスタート。
初の試合実況は8月1日、越谷市体育館での長州vsエル・ゴリアス戦(8月19日放送)。以後頭角を現し、78年11月26日、西ドイツ・シュツットガルト・ギルスベルクホールでの猪木vsローラン・ボック戦にて初のメイン実況を担当。
山崎正、胴谷志朗、三浦智和といった先輩達を差し押さえて国内でもメイン実況となり、同期の佐々木正洋らと共に新しい時代のプロレス中継を作り上げました。
80年7月に発売された村松友視の「私、プロレスの味方です」(情報センター出版局刊)では猪木のプロレスを称して「過激なプロレス」と定義。
古舘もそれに乗る形で過激、超過激という形容を多用、「おーっと!」から入る導入部分から代表的な「闘いのワンダーランド」を始め、過激なセンチメンタリズム(猪木)、現代のガリバー旅行記(アンドレ)、名勝負数え唄、掟やぶりの逆サソリ(藤波vs長州)、蘇ったネプチューン(ホーガン)、テトラポットの美学(R木村)などプロレスに幻想的な比喩を持ち込んだ独自の実況で人気を集め、山本小鉄とのやり取りは視聴者を楽しませました。
83年3月にはタイガーマスクの入場テーマ曲「吼えろ!燃えろ!タイガーマスク」を自ら歌い、タレント性も存分に発揮しました。
古舘はフリーになってからもワールドプロレスリングの実況を87年3月26日、大阪城ホールでの猪木vsM齋藤(4月6日放送)まで続けました。
88年8月8日、横浜文化体育館での藤波vs猪木のIWGPヘビー級戦、98年4月4日、東京ドームでの猪木引退試合をスポット実況。
古舘の実況に影響を受けたアナウンサーは自他局問わず多数おり、古舘退任後のワールドプロレスリングメイン実況の辻義就(よしなり)、日本テレビの全日本プロレス中継担当だった福澤朗などは古舘の影響を強く受けていたと言えます。
開幕戦は古舘のテレ朝所属としての最後の生中継となりました。
藤原喜明、高田の退団で選手層がさらに薄くなった新日本は波乱の船出となりました。
メインは猪木、藤波、星野勘太郎組vsバッドニュース・アレン、リック・オリバー、マイク・デービス組で猪木が延髄斬りでデービスを体固め。
セミファイナルの谷津嘉章vsデビッド・シュルツ戦の前には長州が試合コスチュームで現れ「何で俺を上げないんだ」とアピール、一触即発の雰囲気になりました。試合はシュルツが谷津を体固め。
コブラとダイナマイト・キッドは両者リングアウト、小林邦昭vsデービーボーイ・スミスは両者フェンスアウトとなっています。
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