中断はあるものの高校生からのおつきあい、Kくんのレッスンで大きな気付きが。
それまでは、全く気が付かなかったことが、自身の変化と進展に伴って、なぜかしら、フト目にとまる箇所が新たに現れます。
今回も、そんな、なんとはなしに、何故か、目が最初の一音の時から口元にいってしまう。
私の場合は、目で見て、というよりも、音を聴くと、その奏者の滞る箇所が自分の身体に移されて違和感が増すので、相手のその箇所に目が行く、という感じです。
そして、今回は、何故か口元。
「・・・今もね、音は出ているし、そんなに悪くはないと思うんですが、今日は、何故か、やたら目がすぐに口元に行くんですよ。ちょっと試しに、あて位置、変えてみませんか?」
とそそのかす。
あて位置というのは、中々すぐに変えられるというものではないし、大概は変えたとたんにかなりなじむために苦労するものです。
なので、私もいつもよりは、慎重になる。
「都合が悪ければ、もとに戻していいので、ちょっと試しに・・」
と変えていただいたところ、これこそ、その場所でしょ、というほどの変化。
そして、そのお蔭で、私もまたよりよい本来の場所となることができました。
でも、これは、思い返せば、数年前の「カヤックの構え」でも、もたらされていたもの。
つまり、中庸の構えです。
「右でも左でもなく、さりとてその真ん中でもないところ」である中庸。
『人もまた法螺貝』というのは、本当に私の目指す奏法にとっては核心をついた真実でした。
いや、それまでも、そうしていたつもりだったのですが、それが、ただ位置の問題だけではなく途中経過とその結果による肉の流れ方、皮膚の状態の変化によるもの、ということを再発見。
どのようにフルートを口元にもっていくか、で大違い。
まだまだ、なんやかんや、この当て方の途中経過では、真ん中信仰から抜け切れていなかった、と反省。
途中経過をカヤック方式にすることで、全く異なる世界となる。
驚いたのは、舌の動き方までが違うこと。タンギングがよりやりやすくなる。
高い音だって、何もしなくても、普通に出る。
この一週間くらい、なんだか、ずっと抱えていた違和感がようやく晴れて久々に気分も晴れやか。
別世界です。
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