mixiユーザー(id:3341406)

2023年06月20日20:04

119 view

ゴヤ 《戦争の惨禍》

フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)の銅版画集《戦争の惨禍》はタイトルの通り、戦争なるものの現実、その災い、残忍さと悲劇を描き出している。
その「戦争」とは一体どの戦争か?ゴヤはその戦争とどんな関係があったのか?

《戦争の惨禍》は1810〜20年の間に制作されたが、ゴヤの生前には発表されず、没後35年の1863年、サン・フェルナンド王立美術アカデミーから出版された。全80枚。
ゴヤ自身は82枚を予定していたらしいが、最後の2枚は銅版がなかった。

以下は6/16の中日新聞朝刊から録りこんだ記事。
フォト

写真は《戦争の惨禍》80枚中の第26番〈見るにたえない〉である。

見落としそうだが、画面の右端に、突き出た何本もの銃剣の先端が見える。ナポレオン軍の兵士の銃である。
とすれば、誰しもゴヤの名画《1808年5月3日》(1814/油彩)との構造上の類似を想い起こすに違いない。
その画像も掲載されているので、記事の続きを貼り付けておく。
フォト

フォト

フォト


《戦争の惨禍》全80枚は大きく2つのグループに分けられる。
第1部は、1808〜14年の対仏独立戦争中に、ナポレオン軍の兵士とスペイン人との間で、または親仏派と反仏派のスペイン人同士で繰り広げられた虐殺,暴行,拷問など、あらゆる残虐行為、並びに、2万人もの死者を出したとされる1811〜12年の飢餓のありさまを描いたもの。計57枚。
第1部には1810年と制作日を書いたもの3枚が含まれる。
ナポレオン軍の敗退を描いたものは、史実からして1813年、あるいは1814年始めに制作されたと考えられる。

第2部は、象徴や寓意を用いて戦後のフェルナンド7世による反動行為を批判したもので、「誇張された気まぐれな作品(または強調されたカプリーチョス)」とのタイトルが付けられている。こちらは第65〜80番、そして全体の扉絵でもある第1番その他、計23枚でなっている。
第2部には1820年1月に起こった自由主義革命に対する期待を描いたものが含まれる。
《戦争の惨禍》全体の制作期を1810〜20年としたのは、こうした理由からである。

この作品に描かれているのは、単にナポレオン軍の暴力だけではない。この時代のスペイン史はかなり複雑だし、ゴヤとの関係もしっかり見ていかなければならない。
そこで、それらに関係する史実ついて、なるべく簡略に並べて見てみたい。

1746年 3/30 ゴヤ、サラゴサで生まれる。
    ゴヤは若い頃から啓蒙思想グループと親交があり、ヨーロッパの先進思想に精通していた。
1788年 カルロス4世(1748-1819)スペイン王即位(在位-1808)。
1789年 仏大革命勃発。人権宣言発布。
    …これに対し、カトリック国スペインは異端審問や検閲を強化。
    ゴヤは当時の進歩的知識人と同様、新思想を信奉。
    ゴヤ、カルロス4世の宮廷画家に任命される。
1792年 マヌエル・ゴドイ(1767-1851)宰相に就任(-1808)。ゴドイは王妃マリア・ルイさと深い関係にあったと言われる。
    仏第1次共和制。
1792-93年 ゴヤ、カディスで重病、完全な聾となる。
1793年 仏ルイ16世,マリー・アントワネット処刑。
    ロペス・ピエール恐怖政治(-1794)。
1797〜1800年 ゴヤ、ゴドイの求めに応じ、その寝室用に(秘密裏に)《裸のマハ》を描く。続けてカモフラージュのため《着衣のマハ》制作。
1799年 ゴヤ、カルロス4世の首席宮廷画家に。
1800年 ゴヤ《カルロス4世の家族》を描く。
1801年 ゴヤ、ゴドイの肖像画を描く。
1804年 ナポレオン(1769-1821)帝位に就く。仏第1次帝政。
1808年 英を大陸封鎖のため英同盟国ポルトガル侵攻を口実に、ナポレオン、イベリア半島に派兵。
    アランフェス暴動によりカルロス4世退位、ゴドイ失脚。
    息子フェルナンド7世(1784-1833)としてスペイン王即位(在位-1808)。
    …ナポレオンこれを拒否、兄のジョゼフをスペイン国王ホセ1世に任命。
    …宮廷画家であるゴヤはホセ1世に忠誠の誓い。ホセ1世の肖像画を描いた?
    5/2、マドリード民衆蜂起。スペイン独立戦争勃発(-1814)。
1810年 スペイン亡命政府樹立。
    《戦争の惨禍》制作開始。
1811年 ゴヤ、ホセ1世より王室勲章。
1812年 レジスタンスによるスペイン摂政議会、「カディス憲法」(スペイン1812年憲法、または「自由憲法」)制定。
    ナポレオン軍ロシア侵攻、大敗。
1813年 仏軍、イベリア半島より撤退。
1814年 ナポレオン退位、エルバ島流刑。ルイ18世即位。仏王政復古。
    ウィーン会議(-1815)。
    ゴヤ、摂政政府に申請し、《1808年5月2日》《同5月3日》制作。ホセ1世との関係を告発される事を恐れた事前対策だったとの説もあり。
    フェルナンド7世帰国、復位(在位-1833)。「カディス憲法」破棄。
1815年 ゴヤ、フェルナンド7世肖像画を描く。
    《裸のマハ》、異端審問裁判所により告発される。
1819年 ゴヤ、マドリード郊外に別荘「聾の家」購入。
1820年 クーデターにより「カディス憲法」復活。「立憲制の3年間」(-1823)。
    ゴヤ《黒い絵》(1820-23)制作。
1823年 フェルナンド7世、反動政治。リベラル派弾圧。
1824年 ゴヤ、友人の家に潜伏。
    病気治療として仏行きをフェルナンド7世に申請。許可を得、ボルドー移住。年金も得る。
1828年 4/16、ゴヤ、ボルドーで没。82歳。

ナポレオンは、スペインを含むヨーロッパ各国の知識人達から、フランス革命の人権思想を広めてくれる存在として期待されていたが、自ら専制政治に転向し、ヨーロッパに混乱を陥れた。
また、ゴヤは宮廷画家として、体制側の要人と関係を保ちつつ、内心では、人権思想を信奉していた。このアンバランスが、ゴヤ自身を苦しめると伴に、彼を新しい時代の芸術家に変貌させていったと考えられる。この事は大変に興味深い。


〈付記〉
ゴヤの《戦争の惨禍》は、内20点が町田市立国際美術館の「描かれたニュース・戦争・日常」展に出品されている。
・会期 6/3〜7/17
チャプター
 第1章「ゴヤが描いた戦争」
 第2章「戦地との距離」
 第3章「浮世絵と”報道”」
 第4章「ニュースに向き合うアイロニー」
 第5章「若手アーティストの作品から」

〈参考資料〉
・図録『ゴヤ展』
 監修 国立西洋美術館
 執筆 ハビエル・デ・サラス 他
 発行 1971年、毎日新聞
・図録『プラド美術館展』
 編集 国立プラド美術館 他
 執筆 川瀬佑介 他
 発行 2006年、読売新聞東京本社
 
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2023年06月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930