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2022年11月17日22:50

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小説『月まで三キロ』伊予原新

浜松市天竜区に「月」という地名がある。
単純でいて何とも素敵な名だ。
どうしてそんな名が付けられたのか知らずにきたが、11/3の中日新聞にその言い伝えが紹介されていた。
私は翌日、その記事をスキャンして、日記にこう書いた。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983638683&owner_id=3341406

その記事は伊予原新(いよはらしん/1972- )の短編小説『月まで三キロ』(2018)についても触れていた。伊予原の作品はひとつも読んでいなかったので、この機会に読んでみる事にした。
フォト


起こした会社の倒産、妻との離婚、母の死、子どもの頃から折り合いの悪かった父の認知症等、人生に限界を感じ自殺の場所を探していたある男と、個人タクシーの運転手の会話で小説は成り立っている。

候補地として富士山の青木ヶ原を思いつき名古屋から新幹線に乗った男は、浜名湖を通り過ぎるところで、死の前に好物の鰻を食べておきたいと思い立ち浜松に降りる。しかし、教えられた老舗でうな重をひと口食べると吐き気をもよおし、店を飛び出てタクシーに乗った。
これが発端である。

男の思いを察知した初老の運転手は、対応に困惑しつつ、それなら「近くにいい場所がありますから」と、市街地から北へタクシーを走らせる。
運転手は、気を紛らそうとしてか、男に何かと話しかける。
月はほぼ満月。それを見ながら、実は満月の晩にいつも行くところがあるのだと運転手は言う。

天文学マニアなのか、運転手の月の話は意外性もあり読者も惹かれるが、男はそぞろで、失敗続きの来し方に思いを巡らしてばかりいる。
2人の話を両輪として、タクシーは次第にネオンもまばらになっていく道を北上、いつしか天竜川の脇を走っている。

地球から月が片面しか見えないのは、自転周期と公転周期が一致しているから。
だが、太古には月はもっと早い自転をしていた。次第に遅くなったのは地球の潮汐力のせい。
いつも一面しか見せないというのは、人間関係のようだ。
運転手の話から、男は結婚当初からだんだん気持ちが擦れ違っていった妻を思い出した。妻は子どもが欲しかったが、男は会社から独立し多忙を極める毎日。そこへリーマンショックがやってきた。注文は来なくなり、仕事の振りをしてパチンコに行くようになった。

運転手はこうも言った、地球と月は今38万kmも離れているが、昔はもっと近かった。実は月は毎年1.8cmずつ地球から遠ざかっている。40億年前は、今の半分以下の距離しかなかった。だから、その頃の月はもっと大きく、今の6倍以上にも見えた、と。
周囲は暗闇が増え、男は岐阜の郷里を思い出す。
父は市の職員で、決まりきった毎日を過ごす男だった。帰れば、祖父から継いだ1反の田を後生大事にするばかりの退屈な生活だった。無口だったが、子どもへの干渉と束縛は酷いものがあった。
父から気持は離れるばかり、大学を出たあとは名古屋で勤めた。その会社からの独立も離婚も家には事後報告だった。
大きな借金を作って岐阜に帰ると、父は「恥さらし」とこき下ろし、母はショックで呆然とした。
父はこれ以上大事なもののない田圃を売却し、借金はようやく半分になった。

「この先にね、月に一番近い場所があるんんですよ」と運転手は言った。
一体何を言っているのだろうと男は思った。
運転手は笑って、あと10分程で着くと。

翌年母が急逝した。
父の痴呆症が始まった。
それは急速に悪化し、当たり前の事もできなくなつた。トイレも介助が必要になり、徘徊も酷くなった。息子も分からなくなった。
男はアルバイトを辞めざるを得ないようになった。
1日中世話に明け暮れ、睡眠もとれず、次第に父の扱いは手荒になっていった。もう限界だと思った。
家を売却して父をホームに入れ、男は逃げだした。
僅かな現金を持ち名古屋に出て安宿に連泊するうちに、死ぬ事を考えだした。

運転手に言われて目を凝らすと、すぐ脇を天竜川の水は黒々と広がっている。
「船明(ふなぎら)ダム」のダム湖である。
トンネルの前でタクシーは左の脇道へ入った。
鉄橋の手前の路肩に駐車し、運転手は男を連れてしばらく道を歩いて戻った。
満月が南の空をついてくる。
運転手が振り向いて懐中電灯を上に向けると、ポールの上に青い金属板の道路標識が取り付けられていた。
「月 Tsuki 3km」とある。
男は呆然としてそれを見あげた。

運転手は、標識の種明かしをし、何故天文学に詳しいのか、そして安い天体望遠鏡で一緒に月を見る事が好きだった一人息子について、また、どうして満月の度にここにくるようになったのか、ゆっくりと静かに話し始めた。
その話をここでする訳にはいかない、が、男は運転手の言葉に、死ぬ前にまだやれる事があるかもしれないと思う。


伊予原新は神戸大学理学部地球科学科卒業後、東京大学大学院理学系研究科博士課程修了という、小説家としては変わった経歴である。
相反すると思われる科学と人間の情が、伊予原の小説の中では詩的同衾を果すのが実に新鮮だ。
『月まで三キロ』はミステリー小説とは異なり、たとへ種明かしされても、心に染み入るものは冷める事がない。何度でも読み返したくなる。


短編小説集『月まで三キロ』(2018/新潮社)は、本作以外に以下の書き下ろし短編が併載されている。
『星六花』『アンモナイトの探し方』『天王寺ハイエイタス』『エイリアンの食堂』『山を刻む』。
『月まで三キロ』は2019年に第38回新田次郎文学賞の他に、第3回未来屋小説大賞を受賞した。
 
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