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2021年01月10日10:23

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J・Ⅿ・コレドール編・佐藤良雄訳「パブロ・カザルスとの対話」


照る日曇る日第1528 回


カザルスといえば「鳥の歌」である。

1971年10月24日、NYの国連本部で国連総会場で「カタロニアの鳥はピース、ピースというて鳴くのです」というスピーチの後で演奏された「鳥の歌」に世界中の人々が泣いた。カザルスはその2年後の1973年に96歳で亡くなったが、彼の「鳥の歌」は長く全体主義に対する戦いの象徴となったのであった。

本書はそんなカザルスの秘書コレドールが、長期にわたって書き留めた記録を基にした膨大かつ多彩なインタビュー集である。

はじめに置かれた伝記によって我々はこの偉大な音楽家の出発点を知ることができる。
カザルス家には11人の子供が生まれたが、ほとんどが亡くなり、生き残ったのは長男パブロ以下3人だけだった。

音楽の才能があると知った両親はパブロのためにあらゆる教育を惜しまなかった。
故郷ヴェンドレルから旅立たたカザルスは、バルセロナでチエロの修行修業酒豪を積み、1894年には首都マドリードに出て女王マリア・クリステイナ、そしてその子のアルフォンソ13世の知遇をうけるようになる。

やがて巴里に出たカザルスはラムルー交響楽団のバックでラロのチェロ協奏曲を弾いて名声を博し、1906年にはコルトー、ティボーと共に名高いトリオを結成、それは後年コルトーがナチに転向するまで続いた。

第1次大戦前のパリは音楽家の天国で、カザルスはエネスコ、ベルグソン、フォーレ、ダンディ、サンサーンス、ラヴェル、イザイ、クライスラーなどの知己を得て、世界的なチェリスト、指揮者となる。

しかし1936年7月18日、バルセロナのオケでベートーヴェンの第9の最終リハーサルをを演奏しようとしていたカザルスは反乱軍反徒が襲撃するかもしれないという共和国の役人の知らせに驚愕する。スペイン内乱の開始である。

結局彼は母国に近いフランス領のプラードまで逃れ、そこで音楽祭を開催するのだが、1940年6月にはヒトラーがフランスを占領したので、彼の政治的音楽的苦境は1955年委彼がプエルトリコに移すまで続くのである。

私が愛聴するベートーヴェンやシュウーベルト、バッハ、モザールなどの名演奏は、この音楽祭でのライヴ録音である。

 カザルスのチェロは「ピース」と泣いていたカタロニアで鳴く鳥たちのように 蝶人


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