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2020年07月25日18:56

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ジャクリーヌ・デュ・プレのドキュメンタリー映画

7/19(日)にNHK-BS「プレミアムシアター」で放送されたドキュメンタリー『ジャクリーヌ・デュ・プレとエルガーのチェロ協奏曲』を観る。

これは1967年に制作されたものを、1982年に再編集したドキュメンタリーである。
このデータは重要だ。
1967年はジャクリーヌ・デュ・プレ(1945-87)が22歳。彼女が最も華やかな頃で、同年にダニエル・バレンボイム(1942- )と結婚している。
映画には、結婚迄の道程についての2人のインタビューが含まれ、エルサレムでの結婚式のスチールも入っている。
彼女が多発性硬化症と診断されたのは7年後の1973年28歳の時であるから、無論映画はその出来事をカバーしていない。
そういう前提で観る必要がある。

映画は本人と両親及び関係者達のインタビューで構成されている。
ラストの30分は、エルガー作曲のチェロ協奏曲ホ短調Op.85全編演奏によっている。
画像モノクローム、音声モノラル。

ジャクリーヌは、デュ・プレ家の次女として1945年オックスフォードで生まれた。
デュ・プレという家名は、フランスに近いジャージー島にルーツがあるとの事だ。

母アイリスはピアニストで、娘に踊り、歌、絵等を教えた。
ジャクリーヌは4歳の時、(ラジオから流れてくる)チェロの音を初めて聴いた。
本人へのインタビューによると、ジャクリーヌ(以降J):
すごく気に入り、母に「あの音を出すものが欲しい」とねだった。すると本当にチェロ(大人のフルサイズ品だった)を買ってくれた。
母アイリス(以降I):
ジャクリーヌには音楽の素質があった。1歳の時からリズムを刻み、言葉を話す前から歌った。
チェロはうってつけの楽器だった、私のピアノと合奏できる。(笑)
彼女のために曲を作った。
J:母は子供を教える名人だった。殆ど弾けない時から私にチェロ曲を作ってくれた。母の手書きの詞と絵がついているもので、私はチェロに夢中になった。

映像:その曲『鳥のように空を飛べたら』の楽譜。演奏するジャクリーヌ。たくさんのかわいらしい動物達が描かれている。

J:6歳の時、いい先生が必要と考えた母は、ロンドンのチェロスクールへ連れていった。そこでは、私の「美しく大きな楽器」は取り上げられ、子供用の小さなものを与えられた。プライドが傷つき、ショックだった。

I:娘は始めからとても集中力があった。楽器と演奏に対して本能的なセンスがあった。
遊んでいる時は普通の子供だったが、チェロを弾くと自分だけの世界に没入した。

I:7歳の時、ロンドンでコンクールがあった。
ジャクリーヌは弾くのを楽しみにしていた。会場の廊下で楽しげにスキップをしていたら、ある人が「出番が無事終わったんだね」と。
ジャクリーヌは「これからよ!」と返した。
彼女は、弾き始めると聴衆を惹き込む力を持っていた。

I:スクールで4年学んで、このあと是非先生にしたいと思ったのがウィリアム・プリースだった。

ウィリアム・プリース(1916-99/以降P):
最も印象的だったのは、彼女が私から受け取るものの大きさだった。得たものを打ち返してきて、それをどんどん高めていく。即座に強く反応し、限りなく発展させていく。強く打つ程強いものが返ってくる。成長のない空白の時間等なかった。
初めて会った日に有望だと強く感じた。レッスンを続けるとまるで花が開いてゆくようだった。無限の可能性を感じさせた。

ナレーション:
1年足らずで、栄誉ある「スッジア賞」を獲得。
審査委員長は著名な指揮者(のち”サー”の称号を与えられた)ジョン・バルビローリ(1899-1970/以降B)だった。

B:ジャクリーヌが現れたその事は鮮明に憶えている。
審査員の中には、名ヴィオラ奏者ライオネル・ターティスもいた。
ジャクリーヌが弾き始めて2〜3分で、彼は私に「これこそ才能だ!」と言った。衝撃的な体験だった。生来の卓越した才能が、技術でも音楽性でも花開いていた。
ジャクリーヌの演奏は情緒過多だと評される事があるが、私は彼女の音楽を愛している。若者は激烈でいい、始めから無難でどうする!

P:彼女の才能には多くの要素がある。音楽的記憶力、熱情、抒情性、躍動的でドラマティックな気質、どれも素晴らしく、その才能の開花は興味深いものだった。

ナレーション:以降ジャクリーヌは数々の賞を取った。ギルボード音楽学校の若手音楽家のための「クイーンズ賞(エリザベス女王特別賞)」等々。
16歳、ロンドンで正式デビューを果たした。
J:初の本格的コンサートだった。
1曲目のヘンデルのチェロソナタの第1楽章で、A線の巻きが僅かに緩んできた。指の位置を(微妙に)変えて音の高さを保ったが、ついに巻き直す事になった。
この事は(16歳の私には)むしろ助けになった。聴衆が応援ムードになり、却って演奏し易くなった。

ナレーション:翌1962年17歳、のちに特別な曲となるエルガーの協奏曲を初めて演奏。
ルドルフ・シュワルツ指揮、BBC交響楽団と。

J:15歳の時、スイスでカザルスに教わった。その後、ポール・トルトゥリエにパリで学んだ。
興味深かったが、私は反抗的で、プリース先生を誇りに思い、カザルスに素直に従わなかった。
後年、モスクワでロストロポーヴィチのレッスンも。でもプリース先生こそが恩師でチェロの道の父だ。

ナレーション:プリースの指導でジャクリーヌは成熟していった。不安と、世から増していく要求に向き合った。

ブルッフ作曲チェロと管弦楽のための《コルニドライ》演奏の映像。
ジョン・バルビローリ指揮、ハレ管弦楽団。

ナレーション:トゥルトリエから学びパリから帰国。
ピアノのスティーヴン・ビショップとデュオ活動開始。
1965年20歳、BBC響と初めて渡米。
殊にエルガーの協奏曲が絶賛された。
翌1966年21歳、バルビローリとBBC響によるソ連公演も成功。

J:私は本当に幸運で、素晴らしいストラディヴァリウスを2台を手にした。
最初はデビューの前、次は3年程前(1964年)。実に美しいチェロで、ロシアの名演奏家にちなみ「ダヴィドフ」と呼ばれていた。
ある日、ロンドンの楽器商チャールズ・ビアから連絡が来た。試してもらい、気に入ったら提供する。匿名の贈り物だとの事。
弾いてみて、凄く気に入り、受け取った。

楽器商チャールズ・ビア:
ジャクリーヌのための最高のチェロを探して欲しいとある筋から頼まれていた。有名な「ダヴィドフ」がニューヨークで売りに出されると聞いた。1712年製のストラディヴァリウスで、35年間ニューヨークにあった。
その前は19世紀半ばのロシアに遡る。ある伯爵がこのチェロを巨額で別の伯爵に売却。その伯爵がサンクトペテルブルクの著名奏者カルル・ダヴィドフに誕生日祝いとして贈った。
現存する20台のチェロの名器の内の1台だ。音色は輝かしく、見た目も美しい。世界最高の3〜4台に入るだろう。これに巡り逢えるとは!

店で試し弾きするジャクリーヌの映像。

ナレーション:1966年は4万km以上を旅した。多数のオーケストラ、スティーヴン・ビショップとの共演、ヒュー・マグワイアとフー・ツォンとの室内楽にも取り組んだ。
フー・ツォンの家で、翌年結婚するピアニストにして指揮者ダニエル・バレンボイム(以降D)と出会った。
D:きっかけはロマンチックではなかった。腺熱という病気が縁だった。
あちこちのリンパ腺が腫れて痛い事を、見舞いに来た友人等に言ったら、ジャクリーヌも同じ病気だ、会ってみたらいい、と言われた。好奇心が湧いた。最初は病気についてついて電話で話した。
会ったのはしばらくあと、1966年のクリスマス、フー・ツォンの家だった。
ブラームスを一緒に演奏する事で”音楽的な挨拶”をした。

ナレーション:音楽的共鳴は2人を急速に近づけた。
チェロとピアノのための曲を2人で探した。
デュオ初共演はノーサンプトン、ベートーヴェンとブラームスを演奏。
協奏曲では、イギリス室内管弦楽団とハイドン、ボッケリーニ。それはレコード録音もされた。

1967年4月婚約、9月に結婚する予定だったが、5月に中東戦争の兆し。

J:中東情勢を見守っている中、イスラエルのバレンボイムの両親から電話で「今晩戦争が始まる」と。
その10日後、実際に戦争が始まった。
彼が帰国するというので、私も同行した。開戦前の緊迫した状況下、私達は何かしたいと思い、毎日コンサートを開いた。
シューマンやサン=サーンス、バレンボイムの指揮またはピアノに私のチェロ。
会場は音楽が強く求められていた。

サン=サーンスのチェロ協奏曲の映像。
バレンボイム指揮、ジャクリーヌのチェロ、オケはデータなし。

J:エルサレムで戦勝コンサートがあり、そして、私達は結婚した。
ジョン・バルビローリがたまたまエルサレムにいた。
B:私は天才2人の結婚を祝う乾杯の音頭を取った。

D:ジャクリーヌは自身の意志で一緒に来てくれ、感動した。
彼女は人として生きている。キャリアが全てという女性演奏家とは違い、男性に負けまいとして頑張るというような意識はない。まず人として幸せである事を大切にする。
J:私は楽器とコンサートの奴隷のような演奏家だった事は決してない。
D:長期間に亘るツアーにはなるべく一緒に出かけるようにした。
ただ、共演に関して言えるのは、夫婦である事と音楽的相性は別のものだ。私達は音楽で共鳴するが、それは夫婦だからではない。
多くの人は、恋人同士の共演がロマンチックな名演奏を生んでいるのだろうと理解しようとするが、そうではない。
ジャクリーヌは天性の感覚で演奏する。私達凡人はついていくのが大変だ。
彼女は気付いていないだろうが、それが興味深い冒険となり、歓びとなる。
ジャクリーヌはテンポの感覚が自由だ。時々揺れ動く。それは意図せず自然に湧き上がるもので、揺らしている意識はないだろう。指揮する時は大変だ。

エルガーのチェロ協奏曲の演奏映像。
 チェロ ジャクリーヌ・デュ・プレ
 指揮 ダニエル・バレンボイム
 管弦楽 ニューフィルハーモニア管弦楽団

この圧倒的な演奏で、映画は終わる。


第1楽章、アダージョ〜モデラート。
力強い冒頭の和音でカデンツァが始まる珍しい構造。一気に惹き込むジャクリーヌの演奏。
9/8のモデラートの主題の重たく繰り返すリズム。主題に戻るための継続句の長い上行スケールに思わず熱くなる。

第2楽章、レント〜アレグロ・モルト。
親指のピッチカートで奏される暗く瞑想的和音。猛烈なアレグロ・モルトはスピッカートで。

第3楽章、アダージョ。緩徐楽章は一転して長調の歌。

第4楽章、アレグロ〜モデラート〜アレグロ・マ・ノン・トロッポ。
軽快なリズムの主題が聴く者の体も動かすロンド形式、一旦速度を落とし(ジャクリーヌのソロはかなりテンポをダウンさせる)、第3楽章の主題の再現、短いコーダでは第1楽章冒頭が回帰、前半のリズミックなロンド主題により急速に激して一気に終わる。

 監督・脚本 クリストファー・ニューペン
 編集 ポール・ハンフレス

エルガーのチェロ協奏曲の場面を観て、インタビューにあったバレンボイムのジャクリーヌの人と音楽についての発言を思い出す。
私は、ジョン・バルビローリ指揮、ロンドン・フィルハーモニー、1965年1月録音の名演CDを持っていて、時折り聴いては、今も心が動かされる。
ジャクリーヌ20歳の時の演奏だ。

 参)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1878677103&owner_id=3341406

彼女は1973年4月に期待されて来日したものの、全公演がキャンセルとなった。
その年の秋、多発性硬化症との診断が下され、演奏の場からは引退。
教育の場で活動を続けるが、1987年42歳で没する。
その間でバレンボイムとの結婚生活は事実上終了している。
正確な時期も事情も分かっていないが、バレンボイムはヴァイオリニスト ギドン・クレーメルの前妻でピアニストのエレーナ・バシュキロワ(1958- )とパリで同棲、2人の子供を儲けた。正式な結婚は1988年(ジャクリーヌの死の翌年)だった。

姉ヒラリーと弟ピアスの共著『風のジャクリーヌ〜ある真実の物語』(1997)や映画『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』(1998)は、一概に信用する訳にいかないようだ。

この映画が再編集されたのは1982年、ジャクリーヌの死はその5年後。
ジャクリーヌはこのドキュメンタリー映画をどういう思いで観ただろうか?
それとも、もはや観る事ができなかっただろうか?
 
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