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2020年07月22日19:21

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東海道図屏風〜宇津ノ谷を訪ねる

つい先頃7/15の日記『「十団子」は食物か(改)』で、6/6〜7/19の間、静岡市美術館で開催される予定だった「東海道の美 駿河への旅」展が、コロナ禍にあって中止となった事は書いた。
ほぼそれに近い期間(6/17〜7/19)、代わりの小規模展覧会が開かれていた事は殆ど知られていない。
「見るよろこび:東海道図屏風・竹久夢二を中心に」というタイトルで、まあ、如何にもバラバラな印象である。
手っ取り早く静岡市所蔵品を寄せ集めたというもので、入場無料だった。
そんな事であるから告知も殆どせず、当然入場客も極く少ない。
市美側も、この時節、客は少なくてよいという腹づもりでもあったろう。

その展覧会に、最終日の7/19(日)、行ってきた。
何故わざわざ車を飛ばして行ったかというと、本展の第1章「街道のにぎわい」に興味があったからだ。
冒頭で触れた日記の「十団子」に関係する美術品が展示されていたのである。
それらは、中止となった「東海道の美 駿河への旅」展で展示される筈の品々(全7点)でもあった。《東海道図屏風》(マッケンジー本)も含まれる。
先の日記で、本図屏風については、プレスリリースの図像含め少しばかり触れている。

 参)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1976311542&owner_id=3341406

図録は写真が小さく、何とか実物で詳細を観たいと思っていたから、いい機会だった。

30点程確認されている《東海道図屏風》の中で、このマッケンジー本には明らかな特徴がある。

東海道は、江戸時代初期、家康の指示により、新首都江戸と京都とを結ぶ道として1601(慶長6)年整備が始まり、1633(寛永10)年迄には、各要地に53宿が設置された。将軍上洛時は勿論、大名はこの道を通って上り下りし、のち1636年には、家光によって参勤交代が制度化された。
したがって、《東海道図屏風》のモチーフの中心は武士階級で、当然大名行列も描き込まれた。各地の城は図の中で重要なランドマークとなった。
しかし、当初の政治の道は、商業の発展と伴に、経済の道となっていった。
街道沿いの諸都市は大きくなり、様々な人々がこの道を使うようになった。平和の持続により、城からは次第に軍事的な価値が薄れていった。
マッケンジー本の成立時期は「江戸時代17世紀」とされ、作者共々詳しくは分かっていないが、街道を利用する人々はあらゆる身分の老若男女となり、都市や沿線には様々な店ができ、市井の風俗が描かれるようになっていった。

これには、先んじて発生した《洛中洛外図屏風》の影響が見て取れる。殊に岩佐又兵衛等の「舟木本」から受け継いだと思われるものが、各所に散りばめられていて、面白い。
例えば喧嘩の描写である。38番の岡崎宿では子供同士の喧嘩と仲裁に入る大人、39番の池鯉鮒(ちりゅう)宿(現 愛知県知立市)では女性の激しい取っ組み合いの喧嘩、後ろから髪の毛を引っ張る人もいる、41番 宮宿(同 熱田)では槍刀を持った侍の乱闘、巻き込まれまいと逃げ惑う町民もいて、オペラグラスで、次から次へと見入ってしまう。

こうした様々な人々の行為や文化風俗への興味が、作者に宇津ノ谷峠(20番 丸子と21番 岡部の間)で「十団子」、28番 見附宿(現 静岡県磐田市)では三河万歳、等々を描かせているに違いない。品川から江戸に入る道には朝鮮通信使の一行もいる。

大概の《東海道図屏風》は、右隻右上の江戸から始まり、左隻左上の京都迄、画面を上下2段構造にして街道と各宿を描いているが、「マッケンジー本」に限っては、上中下3段構造にして、宿とモチーフを増やそうとしている。
以下参照。宿には品川からナンバーを入れてある。

 右隻。
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 左隻。
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あれもこれも描き残したいという作者の心理が、こうした特異な構造をも生み出したのだろう。

下のYouTube動画は、静岡市が文化庁の助成を得て作成したもの。
『静岡市の文化財〜東海道図屏風を歩く』。
言葉で書き足りなかった部分が、隅々迄精彩に見る事ができ、実に興味深い。

 https://www.youtube.com/watch?v=nlRG8HMYJO4


静岡市美術館を辞したのち、車でその前の国道1号線を西へ走る。図屏風に描かれた宇津ノ谷の集落や「十団子」をこの目で確認したくなったからだ。
20分もせずに、とろろ汁で有名な丸子の宿に入る。
無論、1号線と旧東海道はイコールではない。旧東海道は、山や川にせき止められ、それらの間を縫って曲がりくねりながら進むが、1号線は、障害物を橋やトンネルで突っ切って、なるだけ真っ直ぐに走ろうとしている。

道の両側の山が次第に迫ってくるように見えて、国道はそのあわいへ、大きく湾曲して入っていく。
古くは、「うつ」という言葉は中がカラである事を言った。「うつろ」という言葉もある。「空ろ」「虚ろ」「洞」等と書く。そこから派生し、地名としては凹型になった地形の場所を指した。山と山の間の谷間である。

1号線をそのまま突き進むとトンネル(上り「昭和トンネル」、下り「平成トンネル」)に吸い込まれるが、その直前に「道の駅 宇津ノ谷峠」があって、そこに入り車を停める。

丸子川に沿ってしばらく歩くと宇津ノ谷の集落に入る。
家々は焼き板を使った壁で、景観の統一が図られている。
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各家の前には、苗字でなく、古くからの屋号の看板が吊り下げられていた。
「車屋」「角屋」「曲がり屋」「伊勢屋」等。
「御羽織屋」には、小田原の北条征伐(1590)の帰途に立ち寄った秀吉が与えた陣羽織が展示されているとの事だったが、店を閉めていた。

だんだん坂道がきつくなるが、この先で旧東海道につながる。
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これを行くと宇津ノ谷峠に出て、その向こう側が岡部になる。
江戸時代の人々はその山道を歩いた訳だが、今は「ハイキングコース」となっている。

平安時代の歌物語『伊勢物語』(第九段「東くだり」)で知られる在原業平が歩いた通称「蔦の細道」は、この旧東海道とはまた違って、今で言うと道の駅の裏手から山中に入る最古のルートである。
「宇津の山にいたりて、我が入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心細く、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。」
たまたま出会った知り合いの修行者に、京に残したあの人に手紙を届けて欲しいと詠んだ歌が以下。

  駿河なる宇津の山辺のうつゝにも
   夢にも人にあはぬなりけり

「すずろなるめ」とは恐ろしい目という事。如何にも寂しい山道が想い浮かぶ。

峠への途中には彼の歌碑が作られているらしいが、当日は時間もなく、旧道に踏み入る事はやめ、峠越えの山の中腹に作られた通称「明治トンネル」に寄ってみる事とした。
レンガ造り、全長203m、1904(明治37)年に完成したトンネルで、「宇津谷隧道」というプレートが入口脇に貼られている。国の有形文化財。車は入れない。
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カンテラ風の照明が美しい。
中には涼しい風が通り、手を打つとトンネルの空間が共振して響く。
これを抜けると、岡部に出る。

今回は、それより何より「十団子」ゆかりの慶龍寺へ行かねばならない。
曹洞宗の禅寺 慶龍寺は、宇津ノ谷集落の裏手に静かに佇んでいる。
丸子川に架かる門前の赤い橋は「龍門橋」。
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7/15の日記に貼った写真は、web上どなたかのブログから拝借したもので、延命地蔵尊の縁日の日、赤い提灯に飾られて賑やかだったが、この日はひっそりしていた。
境内には、許六の件の句の石碑もある。
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木の桟は、縁日の日こそ「十団子」がいくつもぶら下げられる筈。
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古びた地蔵尊の石像は、「峠の地蔵堂」が取り壊された1909(明治42)年、こちらに移されたもの。
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現地には、近年発掘された石の基壇がある由。

今日はこのくらいにしておく。

高校迄静岡市にいながら、宇津ノ谷を訪れたのは、これが初めてだった。
今もその山間に残る小さな集落の周囲には、明治以前からの空気が静かに留まっているように思えたのだった。
 
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