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2020年07月15日19:11

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「十団子」は食物か (改)

静岡市美術館で今年6/6〜7/19の間開催される予定だった開館10周年記念展「東海道の美 駿河への旅」は、新型コロナウィルスの影響により、延期となった。
それに伴い、講演会等関連イベントも中止となった。
私の高校時代の先輩である大高洋司氏(現 国文学研究資料館名誉教授)の講演も、7/4に計画されていたが、中止となってしまった。何を廃しても聴きに行くつもりでいたため、残念な事だった。

しかし、展覧会図録の方は当初計画通りに印刷された。
大高氏の許にサンプルとして届いたうちの1冊を私のところに送ってくれたので、ありがたく読ませて頂いた。
巻頭第2番目に掲載された大高氏の論文は『「十団子」は食物か』と題するもの。恐らく、これをベースに講演も行うつもりだったのだろう。

同論文について以下にレポートする。

タイトルにある「十団子(とおだんご)」は、松尾芭蕉晩年の門人 森川許六(もりかわきょりく/1656-1715)の句で知られている。

  十団子も小粒になりぬ秋の風

句中にあっては「とうだご」とリズム好く読ませるらしい。

静岡県駿河区宇津ノ谷にある慶龍寺では、毎年8/23,24日に地蔵盆の祭事が行われ、「十団子」が供えられる由。
宇津ノ谷は、とろろ汁で有名な丸子の宿の西山中にあり、私の実家から安倍川を挟んでそう遠くないが、行った事はない。

俳諧研究家 山下一海(1932-2010)は、この句をこう読んだ、
「許六は(中略)宇津の山で名物の十団子を味わったことがある。このたびも(中略)茶店に休息して十団子を取り寄せてみると、心なしか以前より小さくなったようだ。おりから吹きわたる秋風の中に、世上の推移も思い合わされて、何かわびしい感じがする」と。

この解釈に大高氏は違和感を持ったようだ。即ち、「十個ずつ麻糸で貫かれ、九連を一束とする乾ききった小さな粒は、(中略)食べられないと断定はできないにしても、これを味わうとは言いがたいのである」。

宇津谷が『伊勢物語』に出てくる事から、中世から近世にかけて「十団子」についての記述もいろいろある由。
中で、江戸時代前期の仮名草子作家 浅井了意(?-1691)は『東海道名所記』(1658-61)の主人公に「小粒なるうつの山べの十団子しかも固くて歯に合わぬ也」と滑稽に歌わせている。

「十団子」の製法は、「粢(しとぎ)」に相当すると考えればよいとの事で、「生米を水に浸して柔らかくしてつき砕き、粉にして、それを固めて作った餅。(中略)火は使わずに製する」(角川古語大辞典)。
宇津ノ谷の場合は沸騰した湯で練る由。
原初的には米食法の一種として生まれたかもしれないが、のちは主として神仏に供える目的に限定されていき、現代の「せんべい」や「あられ」等とは製法も味も異なるものと考えるべきだろう。

静岡市が寺前に設置した慶龍寺の説明看板をweb上で見ると、「十団子」の由来はこうある。要約すると、
…昔、宇津ノ谷峠に旅人を食べてしまう鬼がいた。(『伊勢物語』主人公)在原業平が祈願したところ、地蔵菩薩が旅僧に姿を変えて現れ、峠で鬼と対峙した。
地蔵が、人間の姿に化けた鬼に本体を見せよと言うと、鬼は6mの巨体になった。
地蔵は、鬼の通力を褒め、今度はできるだけ小さくなり、私の掌に乗ってみよ、と言った。
鬼はよしと答え、すぐさま小さな玉となり地蔵の掌に飛び乗った。
すると地蔵は、手に持った杖でその玉を砕き、お前はこれで仏になった、これからは旅人を苦しめてはならぬ、と諭し、10粒の欠片になった鬼を一気に呑み込んでしまった。
こののちは鬼の災いがなくなり、地元では団子を数珠の形にして「十団子」を作り道中守護の魔除けとした。それが今も慶龍寺に伝わっている。…

「東海道の美 駿河への旅」展では、宇津ノ谷の「十団子」に関係する美術品も展示される筈だった。
展覧会は延期となったが、以下、図録でそれを観る事ができる。

1)《東海道図屏風》

以下、プレスリリース資料より。写真は良くないが全体イメージは掴めるだろう。
 https://www.city.shizuoka.lg.jp/000726577.pdf
作者不祥、江戸時代17世紀の作と考えられる六曲一双仕立て。紙本着色、各108×303cm。
旧蔵者名から「マッケンジー本」と言われる。現在は静岡市蔵。静岡県指定文化財。

右隻第一扇下部に、宇津谷の集落が描かれている。その家の軒先に、簾のようにぶら下がっているのが「十団子」だが、上の画像ではそこ迄見る事はできない。

2)《東街便覧図略》より第三〜五巻

高力猿猴庵(本名種信/1756-1831)、1795(寛政7)年作の冊子。紙本着色、各27×19cm。名古屋市博物館蔵。

第三巻に宇津谷峠の景観が描かれている。
大高氏によると、「峠の地蔵堂」と「十団子」の店が別ページに描かれているとの事だが、図録収載写真は前者のみで且つ小さいので、ここで紹介できない。
図中、露台の旅客が食べているのはトコロテンで、「十団子」は魔除け・お守りの品として売られているように見える由。

本展以外から関連図絵等探すと、以下がある。

3)《東海道五十三次之内》(行書版)より〈岡部〉

図像はウィキペディア「東海道五十三次(浮世絵)」。
 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/24/Okabe_Gyosho_Tokaido.jpg
歌川広重(1797-1858)、1841〜42(天保12〜13)年作、メトロポリタン美術館蔵。

丸子の隣宿岡部を描いた1枚。副題〈宇津の山之図〉。
茶店の看板に「名物十ヲだん子」と大書し、その両脇に「うつの山」「立場」とある。
「立場」は「たてば」と読む。江戸時代、宿駅の出入り口に設けられた休息所、掛け茶屋の事。
店の右奥の軒に、「数珠状の十団子が並んで吊るされ」ている。
それとは別に、手前の藁差しには串の団子が刺さっている。
大高氏によれば「前者は魔除けの十団子で、後者は食用の団子と見られる」と。

もう1つ紹介するのは、web上で私が見つけたもの。
4)《東海道名所風景之内》より〈宇津谷峠〉

図像は国立国会図書館デジタルコレクション。
 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1309511
歌川国貞の門人 歌川貞秀(1807-79?)、1863(文久3)年の作。シリーズ名を《御上洛東海道》とも呼ぶ。

宇津ノ谷峠の茶店の前を通る大名行列、店頭に「とおだんご」あるいは「十團子」との札と伴に50連もの団子が吊り下げられている。
行列の先を見ると、脇道に「峠の地蔵堂」がある。
画像は高精細のまま拡大・スライドができるので、店頭の様子や地蔵堂もよく見える。

以下はweb上のブログから勝手に拾った2013年の宇津ノ谷現地写真。
地蔵尊祭時に飾られた慶龍寺。
フォト


寺の軒先に吊り下げられた「十団子」。色は白のみ。
フォト


この日には、「十団子」の作りを模して、地蔵尊と地元の家々が紅白のさらし布で数珠のように結ばれる。
こちらの写真は2016年のブログより。
フォト


このように見てくると、総じて、宇津ノ谷の「十団子」は、お菓子でなく神仏に供えるための物と理解して良さそうだ。
冒頭の山下一海の解釈は、「名物」という冠に騙され、現物なり現地なりに当たらずに済ませた代物と言うべきか。

尤も、全国の「とおだんご」が全てこの通りではないかもしれない。
web上で調べた範囲では、宮城県塩釜市や、愛知県熱田神宮にもあるらしい。
字は「十団子」や「藤団子」を当てているとの事。

私は、今年3/8に熱田神宮を訪れたのだが、気付く事なく帰ってきてしまった。
熱田神宮前の老舗菓子屋その他でそれは販売しているらしい。
以下、同老舗店のサイト。「藤団子」の写真を見る事ができる。
 https://www.okashi-net.com/mall/kiyomemochi/

サイトによると、熱田神宮の「藤団子」は祭事の残り米で作り始めたとあるが、白,赤,黄,紫,緑 5色のリング状の干菓子を麻ひもで結わえた形状で、宇津ノ谷のそれとは大分違う。厄除け、五穀豊穣を祈願する目的で作られたと書かれているが、詳しい事は分からない。

大高氏は論文の最後を、以下、俳諧研究家 上野洋三(1943- )による許六の句の解釈でまとめている、
「聞き及んだ十団子は、団子という名から予想したよりは、はるかにつつましく、小さな姿であった。それが蕭々たる秋風の中で、ひとしお淋しい歌枕宇津の山越には、いかにもふさわしい景物のように思われた」。

家々や茶店の軒先に吊り下げられて秋風に揺れる白く小さな「十団子」は、「食物」でなく「景物」として扱われ、宇津ノ谷の秋の景色に見事に溶け込んでいるようだ。
また、「小粒になりぬ」は、「十団子」の由来にあった、地蔵菩薩が杖で砕いて欠片にした事をイメージさせる、それを兼ねる狙いがあったかもしれない。
 

今回はweb情報を多用したが、できれば現地を訪れ、また延期された展覧会も実際にこの目で見て、付記・訂正すべき点等あれば再度レポートしたい。
 
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