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2018年10月28日11:49

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郷ヶ平古墳、陣座ヶ谷古墳、火穴古墳 私的見学会

近隣の古墳見学、その第3回目。
10/22(月)は3つの古墳を訪ねた。

最初は「郷ヶ平 (ごうがひら) 古墳」である。
最近、新聞や浜松市の広報等で発掘の成果について記事が幾度か掲載されていたが、都田町郷ヶ平という地名には心当たりがなかった。都田町といっても、結構広い。
やっと調べる気になってネット等で当たると、判った。
我が家から本当に近くである。車で5分もかからない。
「モクレン通り」を北に進むと、東へカーブしていく場所があるが、その近くに九重という養護老人ホームがある、そこである。
住所は浜松市北区都田町字郷ヶ平。

1998年から断続的に発掘調査が行われているらしいが、最近では2013年に第6次調査が行われ、多数埴輪等が発見されている。
九重ホームの敷地の中にあるため自由にはできず、建物の建て替え時等に工事立ち会いで調査をしてきている。
2013年は駐車場の工事が行われる際、4〜5月にかけて集中調査が行われ、今年2018年秋に成果報告会が開催された。

ここには複数の古墳がある事が以前から知られており、「郷ヶ平古墳群」と総称されていたが、今回迄の調査の結果、数は7基と結論づけられた。
うち3基が前方後円墳で残りが円墳である。
2013年の発掘調査は第4号墳と第6号墳(前方後円墳)の部分が行われた。

現在当地を訪れて見る事ができるのは第4号墳(以下写真)のみで、他は遺物の採集後、老人ホームの建物や駐車場の下に眠っている。
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右に老人ホームが見え、手前後円の一部が削り取られた格好になっている。

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この説明板がなければ、樹木が墳上に茂っており、古墳と言われても素人には判らない。
全長26.5m、幅16.5m、高さ2mとの事だが、周溝は埋まってしまっていて、周りとの境も判然としない。
古墳時代後期、6世紀中葉に築造されたと推定される。
墳丘からは、人物(武人)、馬型等の形象埴輪や円筒埴輪が多数見つかった。

第6号墳は、現在はもはや見る事ができないが、全長20m、造られたのは6世紀前半と推定されている。ここからも多数の埴輪が発掘された。
4,6号墳共に石室はなく、木棺直葬と想定される由。

第1号墳(直径13mの円墳)が最も古く、古墳時代中期(5世紀中葉以降)に築造されたと考えられている。
第3号墳(全長23mの前方後円墳)が次で、古墳時代中期(5世紀後半)の築造。
何れも、今はミカン畑になってしまっている。

古墳群の墓の主は不明だが、5世紀後葉〜6世紀中葉にかけて3代にわたりこの辺りで勢力を維持した首長層が造営したと考えられる、との事である。

各説明板によると、見徳古墳が1400年前(7世紀初頭か?)、恩塚山古墳が1300年前(7世紀前半)とされていたから、それらより郷ヶ平古墳群の方が古いという事になる。

参)見徳古墳https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1968429024&owner_id=3341406
参)恩塚山古墳http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1966338610&owner_id=3341406

郷ヶ平で発見された埴輪は全国的に見ても特徴のあるもので、様々な議論を呼んでいるようだ。
一般的に埴輪は赤茶色だが、ここで見つかったものにはグレー色調のものが多い。
また、人型埴輪では、人体の胴は普通平板になっているが、郷ヶ平のものは胴体が球体状に膨らんでいる。
これはどういう訳か?

尾張系の須恵器がそのヒントとなるらしい。
愛知県尾張地方を中心に分布する須恵器は、グレーに焼き上がっているものが多いとの事。
刷毛目の痕や製作工程からも、尾張系須恵器の影響が確認できる由。
胴体が球体状に膨らんでいるため、土器なのか埴輪なのかという議論も沸き起こったが、埴輪と須恵器の文化・製作手法がここてでぶつかり合体したと考える事もできるのではないか、現在はそんな推測をしているようである。

郷ヶ平の現場では出土品を見る施設はない。
引佐に新しくできた「浜松市地域遺産センター」に展示があるとの事で、また行ってみたいと思っているところだ。


次に、「陣座ヶ谷(じんざがや)古墳」へ。
住所は浜松市北区細江町中川。
通称「姫街道」を北へ進み、三方原台地を降りていく途中、左手に陣座ヶ谷古墳入口の小さな看板がある。
昔からここに看板があるのは知っていたが、車でしか通らないので、何処から上がるのか判らず、そのままになっていた。
郷ヶ平、見徳、恩塚山が北に都田川を見下ろす一帯にあるのに対して、陣座ヶ谷は同じ三方原台地の縁でも、かなり西に離れている。

丘に上がっていく道は細く、崩れている所もあるので、車は断念。ミカン畑の間を大回りする山道を歩いていった。
急に丘の上の広々と開けた所に出て、そこが陣座ヶ谷古墳である。
全長55mの前方後円墳。柱から落ちて剥げている説明板を何とか読むと、その手前に小さな円墳もあるらしいが、よく判らない。
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古墳時代中期(約1500年前)と書いてあるので、6世紀中頃のものだろうか。
一度、1915(大正4)年に銅鏡と刀の破片が多数掘り出されたが、周囲の民衆が祟りを恐れて埋め戻しをした、とも書かれている。
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墳丘の上から北方向、引佐・気賀の眺望は実に素晴しい。墳墓の主は、ここから我が領地を遥々見渡したのだろうか。
秋の爽やかな風が心地好い。

これも石室はなく、こんもりとした丘があるだけてある。
出土品は、気賀の細江神社境内にある細江町歴史民族資料館に展示しているとの事。
そこには昔行った事があるが、殆ど記憶がない。また訪れる事としよう。


これから行く「火穴(ひあな)古墳」は、大分離れている。
住所は、浜松市西区深萩町。
ナビに登録がなく、大分迷い、ミカン直売場のお兄さんに訊くと、
「レアな所に行くねえ!」と笑われた。

やっとたどり着いた古墳の前には小さな駐車場、周囲を巡る小径と羨道に架る橋も整備されている。
周囲はビニールハウスや民家が並び、意外にも高低差のないなだらかな場所。
根本山古墳群の一つで、説明板によると1400年前(6世紀後半)のものらしい。
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この汚れ具合からして、訪れる人はあまりいないと推測された。

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直径22m、高さ4m程の円墳で、玄室に被さる赤い大岩が露出している。
(「もろくなっておりますので石の上へのらないでください」との注意書きがある。)
こうした特徴の赤茶色の岩は根本山上に多数あるそうで、そこから運んできたのだろう。
この岩のせいで「火穴古墳」と通称されるようになったのではなかろうか。

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羨道(長さ4.6m)から横穴式の玄室(奥行き4.7m)を覗く。隙間から陽が射し込んでいる。
奥迄入って、立派な鏡石に触れる事ができる。

三方原台地南西部を支配した豪族との関係があった人物の墓と考えられているらしい。


以上、当日は3つの古墳を巡って帰った。
これで私的古墳見学会もほぼ一段落である。
 
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