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2018年10月13日08:36

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岩波版夏目漱石全集第19巻「日記・断片上」を読んで



照る日曇る日 第1147回

夏目漱石の謎は「嫂との恋」説、「兵役逃れの北海道本籍移籍」説、「妻鏡子による漱石暗殺未遂」説などいろいろあるが、故車谷長吉による「漱石=愛と献身の作家」説もそのひとつである。

明治40(1907)年、彼は妻鏡子の父、中根重一(1851-1906)が相場に失敗して抱えた巨額の負債を肩代わりするために、一高、帝大講師の身分、友人狩野亨吉からの京大教授招聘依頼を捨て、より高収入の新聞社への就職を決意。読売新聞(100円)よりも高い月給200円を提示した朝日新聞に入社したというのである。

当時2つの学校からの年収は1500円、朝日だと2400円だから、その差は大きい。
中根の借財がいくらあったのか、それらを大正5(1916)年12月の生前にどれくらい返済できたのかは分からないが、ともかく漱石は自分に残された10年足らずの生涯のすべてを、妻の父親の不名誉な借財の返済に捧げた、という。

妻鏡子をはじめとする親類縁者、友人知己、研究者の証言や資料を探したが、今に至るも確たる証拠がない。車谷説は文学者の妄想の類かと思うこともあったが、この仮説は漱石の後半生を今までになく鮮やかに照射するものなので、軽々には捨て難い魅力を持っている。

けれども、本書233頁「甲浪人して負債山の如し。ある紳商その才を惜しんで某会社の社長に推す」に始まる漱石の明治39年の断片は、注目に値する自己証言、貴重な参考資料といえるだろう。

彼はそこで中根重一の下手くそな経営の才、重一の死後家督を相続した長男、倫(漱石の妻鏡子の弟)の、父が死んでも葬儀を営むことができない無能さ、借財と積極的に取り組もうとしない無責任な態度、好ましからざる異性関係などについて苦々しげに叙述している。

断片の最後は「嗣子の姉二人、AとBとに嫁ぐ。AとBとの関係。Aとこの家族との関係。Bとこの家族との関係」という箇所で突然終わっている。

Aは鏡子、Bは梅子で建築家鈴木禎次の妻であるが、漱石と鈴木禎次は同じ娘婿としてある程度の付き合いはしたようだが、鈴木も漱石に倣って、義父の借財を身銭を切って返済したのだろうか。

漱石は晩年、妻鏡子の金銭管理に見切りをつけて自ら家計簿をつけ、家計を管理しているが、重一、鏡子と二代にわたる経営感覚のなさに気付いたのかもしれない。

ともかく漱石が表舞台で掲げている小説より遥に面白いこと間違いなしの「日記・断片」の集積である。

  予報士が明日は晴れたり曇ったり所によって俄か雨という 蝶人


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