mixiユーザー(id:6806513)

2018年03月19日17:41

110 view

レイモンド・カーヴァー「大聖堂」

少し救いが書かれるが、決して根拠のない楽観(がんばろうよ、の類)はない。
だって、未来のことはわからないから書けない。

「でもそれはもう通り過ぎてしまったのだ。そしてその通り過ぎたということも−彼はその事実を認めたくなくてずっと抵抗してきたわけなのだが−これからはやはり彼の一部になってしまうのだ。彼が過去に置いてきた他のものとまったく同じように」
という、希望のなさは変わりがない。
これだけ徹頭徹尾ネガティブな姿勢を崩さないというのは、ある決意をしているんだろう。
書く本人が滅入るだろうし、読者へのサービス精神から少しは明るい挿話や結末を書きたくなるものだろうから。
しかし、とても誠実な態度であることは間違いない。

その中で、希望(のようなもの)が書かれる。

「ささやかだけれど役に立つこと」
息子の誕生日ケーキを予約したが、息子は事故で死ぬ。動転した母親は、朝5時から鳴る電話がケーキ屋からの受取催促電話であると思い至り、怒鳴り込む。
ケーキ屋は、そこで事故のことを知らされ、謝罪し、自らの酷い人生を語り、とにかくパンを食べて落ち着きましょうと話し、夜明けまで語り合う。

「大聖堂」
妻の友人である盲人の訪問に不愉快な思いをする主人公が、テレビで観た「大聖堂」を二人でスケッチすることで、盲人の気持ちを味わう。

何の役にも立たないかもしれない。でも役に立つかもしれない。
盲人の気持ちなんてわからないかもしれない。でもわかるかもしれない。
そのわずかな可能性を抱きしめるしかしょうがないんだよ、という声が聴こえる。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する