つちふるや帽子屋のお茶さめてゐて(羽田野令)
「鏡」二十一号より。初見は、北の句会。 「不思議の国のアリス」に出てくる気違い帽子屋を、倦怠の中に置くという、いかにも現代的な視点で書かれた句。
句会では、帽子屋だけで「不思議の国のアリス」と結びつけることが出来るかが議論となった。要するに、「つちふる」と「お茶さめて」の関連はよくわかるが、帽子屋が恣意的にはめ込まれているのではないか、という意見である。愚生は、連想がアリスに出てくる帽子屋へと、直ぐに飛んだので、句はすんなりと納まった。しかし、句会でその旨を述べても、あまり納得していない向きもあった。
作者自身は、初めからアリスを想定していたようだが、五七五として提出している以上、五七五内部で解釈すべき問題ではあろう。したがって、帽子屋を恣意的とする意見も一概には退けられない。
帽子屋を恣意的(とは言わずにアドリブとした方が良いのだろうが)と取って、アリスとは異なる世界へ解釈を伸ばすこともあり得る話ではある。
いのうえの気配なくなり猫の恋(岡村知昭)
の「いのうえ」などは、まさに先行する物語不在のところで書かれた句ではある。しかし、「不思議の国のアリス」を下敷きにする以外に、上揚句の旨味を増やす調味料はないように思う。ちょうど、
やわやわと重みのかかる芥川(古川柳)
の「芥川」が、伊勢物語を下敷きにしない限り賞味できないのと同じ事情と思える。
再び目にした句を前にして、そんなことをつらつら考えた。
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