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2015年06月16日22:17

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「想像ラジオ」いとうせいこう

妻子への思いを残して震災で死んだ人間が「想像」でDJをし、同じ運命をたどった人々、一部の残された人々とラジオで交流する。
その情報のなかから、妻子が生きていること、自分が愛されていたことを知る。

「当事者ではないのに悲しむ、ことに多くの人が疑問を感じた。でもデリカシーを持ちながら悲しんでいいんだ、思い続けて構わないんだ」と、星野智幸は解説する。
むろん、そうだ。「思う」ことをとめることは誰にも出来ない。

しかし、と思う。
しかし、震災の時に多くの人が感じた、同じように悲しむ(悲しめると思う)のは不遜ではないのか?という真っ当な慎みは、消えつつある。
それは震災の記憶が摩耗してゆくこととパラレルな気がする。
むろん、これは一面である。

他人の不幸を十分に悲しむのは、尊い。
尊いが、彼らは、そう出来ない(不遜だと感じて立ち止まってしまう)者への無言の不満を表明してはいまいか?少なくとも、僕はそれを感じることがある。

現在、あの壮大な不幸を経て、同情の押し付けがより強度を増して、この国を覆っている(むろん一面として)かに思うことがある。
以前からあった「被害者への過度な思い入れ」が、「加害者の袋叩き」に短絡するだけでなく、「思い入れられない者への非難」に、当然のように繋がっていまいか?

あたたかい、押しつけがましくない、いい小説である。
でも、思う。
(いとうせいこうに、ではなく、感動している読者に問いたい)
みんなで「花は咲く」を唄って感動してどうする?
もうこんな残酷な世界に咲きたくない、と思う者を誰が説得出来る?
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