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2015年01月03日21:08

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俳句参集会鑑賞記一

 年が変わってしまったが先月の20日、伊丹の柿衛文庫にて第三回の「俳句ギャザリング」があった。愚生は二回目を見学し損ねているので、見に行くのは二年ぶりになる。
 一回目と二回目は神戸の生田神社会館が会場だったが、場所を変えて、中身の方にも若干の変更が加えられた。テレビ番組のコンセプトを借りれば、バラエティ色を薄めて、教養番組風の作りになっていた。

 イベントの進行は、第一部が第三部の予選を兼ねての大学対抗の天狗俳諧。一句の五七五を三人で埋め持ち、相談なしに三人が出したバラバラの文言を、五七五に組み立てたときの出来映えを競う。審査は会場に詰めかけた観客の挙手で決定する。
 観客の動向を見ると、言葉の意外な組み合わせが生む驚きを取るか、どこにゆくかが分からない文言が「俳句らしさ」の中にきちんと収まっているかどうか、そのどちらで判定するかを決めかねているような雰囲気があった。競技者の一喜一憂(ここを勝ち上がらないと第三部の決勝に進めない)を別にしてその点が興味深かった。

 第一部の終わりに、会場からの感想という形で愚生に発言を求められた。打ち合わせも何もなくいきなりの指名で戸惑ったが、おおむね上述のようなことを発言したと思う。イベントの中締めとしてふさわしかったかどうかは心許ない。発言しつつ、天狗俳諧をこんな形式で使うのはまずいんちゃうかという気がしていたからだ。心にもないことをいっているようで気が引けた。その引け目のせいか、発言後は、このイベントのどこにどんな形で天狗俳諧を嵌めれば良いかを考えていた。
 第一回目の俳句ギャザリングから、天狗俳諧は三人一組のチームが五七五をそれぞれ分担して一句を成す形式で行っている。
 だが、このスタイルでは、三人の息が合えば合うほどしょうもない句が量産されることになる。衆人環視の中での作句では、「俳句らしさ」の中に納めてしまうことがアクロバットとして見映えがする。だが、アクロバットが終わってしまえば何の取り柄もない句がそこにあるだけだ。
 もともと、天狗俳諧はでたらめに出した文言を無作為に並べたときに、偶然生じる意外性ある句が真骨頂のはずだ。したがって、三人のチームワークが良ければ良いほど天狗俳諧の良さを殺すという皮肉に陥る。
 だが、偶然に頼っていては勝ち抜けないだろうから、何日も練習してチームワークを練る出場者の側にその責を負わすのは酷ではあろう。
 主催者側が、この形式の採用形態についての一考を要するのではないか?この形式は、広く観客側から五七五をバラバラに求め無作為に並べ直したものの中から選者が佳句をチョイスすれば良くはないか?選ばれた五七五を提出した三人に何らかの賞品を渡すというようなビンゴスタイルがふさわしいのではないか?採用するならイベントの最後の最後に行うのが最も良いのではないか?
 などと言うことを、二次会・三次会で話そうと思っていたが忘れてしまった。

 一部では、大阪大学・甲南大学・京都大学・龍谷大学のチームが勝ち上がり、立命館大学・俳句ラボチームが脱落した。

(この項続く)

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