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2014年02月20日14:07

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堀尾真紀子著『女性画家 10の叫び』

堀尾真紀子が書いた『女性画家 10の叫び』を読む。
ここで取り上げられているのは、19世紀から20世紀に活躍した以下10人の女性画家、版画家、彫刻家である。

三岸節子(1905-99),小倉遊亀(1895-2000)
フリーダ・カーロ(1907-54),レメディオス・パロ(1908-64)
ニキ・ド・サンファル(1930-2002),ケーテ・コルヴィッツ(1867-1945)
桂ゆき(1913-91),いわさきちひろ(1918-74)
マリー・ローランサン(1883-1956),メアリ・カサット(1844-1926)

アルタミラの洞窟がに端を発する長い長い芸術史の中で、女性の芸術家は圧倒的に少ない。
宗教や国家や家父長制の下で、個人が犠牲になり、殊に女性が虐げられてきた時代は極めて長大である。
そんな時代の中にあっても、世間が求める女性像に満足せず、自分の裡に突き上げる欲求をを開花させた、自立心溢れる女性はいた。
この書は、そうした女性芸術家10人にそれぞれの章を与えて、時代、人生、内なる「違和感」とその克服、作品に焦点を当てたものである。

私がまだ生で作品に接した事のない芸術家が3人いる、レメディオス・パロ,ニキ・ド・サンファル,ケーテ・コルヴィッツだ。
私はまずそれ以外、既知の芸術家について読み、そして、最後に彼女達の章に読み進んだ。
残念ながら本に図版掲載が少ない為、時々パソコンを開き、その作品をネット上で確認しながら読んだ。
こんなに素晴らしい作品を残した芸術家をこれ迄知らなかった事に、自ら呆れた次第である。
世界に(日本にも)そんな作家がたくさんいる事を自覚して、日頃の芸術鑑賞を、漫然とでなく、己の行為として位置付けなければならない。

3人についてそれぞれ書きたいが、そうもいかない。
ここでは、その中でケーテ・コルヴィッツを選ぶ事とする。
彼女の章には「心の声を聴く」とタイトルが付けられている。

彼女が生まれたのは1867年のプロイセン、日本では徳川幕府が大政奉還をした年で、翌年から明治時代が始まる。
当時ドイツはウィルヘルム1世の治下、北ドイツ連邦が同年に生まれ、1871年にはドイツ帝国となる。
その後、第1次世界大戦(1914-18)の敗戦によって大きな打撃を受け、共和国となるが、その屈辱の中からナチスが勃興し、第2次世界大戦(1939-45)が起こる。
ケーテは戦争に次ぐ戦争の時代を生き、次男ペーターを第1次大戦、そして孫のペーターを第2次大戦で失い、大戦終結を確認する事なく死んだ。
孫に息子と同じ名前を付けたケーテの気持ちを想うと、胸が痛くなる。

ベルリンに「ノイエ・ヴァッヘ」という場所がある。「新衛兵所」とでも訳せばいいのか。
ここにケーテの『ピエタ』(1938)がある。
皺深い「褐色の塊のような農婦」が、膝元に息子の骸を抱いている。息子の頭部は力なく母親の胸に埋もれ、喉の光る線はぴくりともしない。彼女の左手は、息子の指先に優しく触れている。泣き疲れ、最早涙も涸れたように見える。
1993年、「ドイツ再統一後の連邦政府は、ここを「戦争と暴力支配の犠牲者のための追悼所」とし、戦没兵士、一般市民の犠牲者をはじめ、ナチス・ドイツに殺されたユダヤ人など、第一次世界大戦以後の戦争や暴力で犠牲となったすべての人々を追悼の対象」とした。(「 」内堀尾の記述を引用。)
そして、そこに置かれる事となったのが、ケーテの『ピエタ』である。(ケーテはその時、亡くなってもう久しい。)

つい我が国の事を想う。
日本政府は、何故、世界の誰もが慰霊に訪れる事のできる場所を日本に作る事ができないのだろうか。
海外からの批判を無視し、個人的な主張で靖国神社に参拝し続けようとする政府一部首脳の心の貧困に、情けなくなる。

ケーテは『ピエタ』の為のデッサンをたくさん描いた。
彼女の日記にこうある、
「デッサンを一つ描いた。死んだ息子を両腕にかかえている母の図である。このような画をわたしが百枚描いたところで、わたしはペーターのそばへゆけるわけではない」(『ケーテ・コルヴィッツの日記〜種子を粉にひくな』より1916.8/23の項)。
堀尾は「ケーテはこの痛恨の思いを人々に伝えるためにこそ、生涯をかけて、たくさんの作品を紡ぎ続けたのではないか」と書いている。
しかし、思いは届かず、ヒトラーは彼女から芸術院会員の称を剥奪し、芸術活動を禁じさえした。そして、孫のペーターの命も、戦争は奪っていった。

最晩年のケーテの日記、
「わたしの最も深い欲求は、もはや生きていたくないということです」(前掲1944)。
だが、ケーテは絶望し厭世主義に陥った訳ではない。
ナチスから芸術活動を禁じられていた時も、密かに制作を続けていた。
彼女の遺作『種を粉にひくな』(1944)では、母親の子供への愛情が固有名詞の出来事から普遍性のある次元に昇華されている。

「種を粉にひくな」というのは、ゲーテの言葉で、撒いてたくさん実をつけるであろう種を、目先のパンの為に臼でひいてはならない、つまり、これからの世界を築く若者や幼い子供達を、戦争の為に死に追いやってはいけない、との意味だ。

第2次大戦のヨーロッパ戦争はヒトラーの自殺(1945.4/30)によって実質終了するが、ケーテはそれを知る前4/22に病没している。
孫娘ユッタに彼女はこう言い遺したそうだ、
「あなたのいう通り、戦争がなくなったとしても、誰かがそれをまた発明するかもしれないし、誰かが新しい戦争をやり出すかもしれません。今まで長い間そうやってきたように。しかしいつかは新しい思想が生まれるでしょう。そして一切の戦争を根だやしにするでしょう。(中略)このような確信のうちにわたしは死にます。そのためには、人は非常な努力を払わなければなりません。しかし必ず目的を達します。平和主義を単なる反戦と考えてはなりません。それは一つの新しい思想、人類を同胞としてみるところの理想なのです」。


著者 堀尾真紀子
発行 2013年7月岩波書店、<岩波ジュニア新書>

堀尾の著作では過去に『フリーダ・カーロ〜引き裂かれた自画像』(1999中公新書)を読んでいる。


写真1 ケーテ・コルヴィッツ
写真2 彫刻『ピエタ』
写真3 版画『種を粉にひくな』
 
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