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2014年02月11日12:22

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石井妙子著『日本の血脈』

文春文庫から昨2013年6月に発行された、石井妙子の『日本の血脈』を読む。

元の題は、月刊「文藝春秋」2011年2月号から2012年12月号迄連載された『現代の家系』で、文庫本の為にタイトルと伴に書き直しをした由。
月次で1人の著名人をピックアップし、家系に焦点を当て、その人物像を浮かび上がらせようというのが、月刊誌スタート時のコンセプトである。
何れも父母、祖父母、曾祖父母に遡り、つまり結果的には、昭和,大正,明治、場合によって江戸末期に迄遡上、それぞれの時代に、彼等の祖先がどういう働きをしたか、殊に土地との関わりの中でどう生きたか、綿密な調査によって掘り起こしている。

この本で取り上げられた人物は、以下の通りである。個別のタイトルと伴に並べておく。
本を買った時点では、私はこれら個人名迄チェックしていなかった。

「女系家族 小泉進次郎」
「癒されぬ子ども 香川照之」
「哀しき父への鎮魂歌 中島みゆき」
「土地の亡者と五人の女 堤康次郎」
「ひとりぼっちの豪邸 小沢一郎」
「影を背負って 谷垣禎一」
「流血が産んだアート オノ・ヨーコ」
「遅れてきた指揮者 小澤征爾」
「皇室で掴んだ幸せ 秋篠宮紀子妃」
「母が授けた改革精神 美智子皇后」

典拠のはっきりしない事柄でも興味本位で書き連ねる週刊誌のゴシップ記事の延長とは違う次元で書かれている。
参考文献の多さと、根拠引用が明確化されている事で、それが判る。

血の問題がその人物の全てを語る訳ではない、が、その視点を全く無視して理解する事もできない。
「取り上げた当人よりも、その先祖や家族である無名の人々の人生に、深い感銘を受けることも多かった。先祖が立派だからといって、立派な人物が生まれるとは限らない。だが、人の思いの集大成が人を作る。人は一代で作られるものではないとの思いを強くした」というのは、文庫本のあとがきにある、石井妙子の感慨である。
続けて、こうも言う、
「時には、家そのものが、ひとつの意思を持った生命体のように思えて不気味に感じたことも、また、家が世代を超えて繰り返す過ちを知り、業や因果といった迷信じみた感慨に捉われたこともあった」。

政治家は二代目三代目と継がれて来ているケースが少なくない。
初代が政治家になって市民国民の為に何を成そうとしたのか、そういう意図が失われ、ただ地盤や票を受け継いだだけの人に、政治家として一体どんな価値があるのか、票を投ずる人達はよくよく考えなければならない。

岩手県の過疎地水沢には、選挙のアリバイのように、今も小沢一郎が育った板塀の黒ずんだ木造の家がある。彼の母親はここでどぶ板を走り回り、頭を下げ続けた。木の表札だけは新しいが、彼がここに帰る日は今ない。
そして、世田谷の一等地には、面積600坪の豪邸があり、警備員が目を光らせている。
この二つの家とそこにまつわる諸々を見比べてみる事は、小沢一郎理解に意味があるだろう。

小沢一郎の例はさておき、二代目三代目政治家の多くは、その血脈を自分の「力」としてしか見る事ができない。まるで暖簾を引き継ぐ「権利」か何かのように。
政治家は、本来国民の幸福の実現為に存在する筈のものだが、彼等にはそういう視点はない。自分は自分にもたらされた権利で政治をやっている、そう思っている事だろう。
自分の「力」が国民をしかるべく導いてやるのだと奢った時、本人がどれ程国民から離れているかという事は、もう見えなくなっている。
憲法は本来政治や権力の暴走を縛るものだが、彼には国民を引導し統率する為のツールとしか映らない。
国民から乖離した人物が、個人的欲望の実現の為に動き出す事の如何に危険な事か。

月刊誌での連載企画が2012年12月迄だったから、ここにA倍晋三が取り上げられていないのは致し方ない。第二次A倍内閣の発足は2012年12/26だから。
しかし、今一番血脈を問題にすべきはこの人物である。
例えば「侵略の定義はまだ定まっていない」等、彼の日頃の偏った発言の訳は、血脈が明かしてくれるだろう。
関係諸国との間に軋轢を生じさせ、明らかに国益を損じさせて、何故それ程靖国神社に参拝したいかも。

人は生まれつきその人なのではない、どうしてその人となったのか、それは、時代背景、生まれ育った土地と環境、家等が大きく関わっている。石井が言う通り、まつわる多くの「人の思いの集大成が人を作る」のだろう。
取り上げられた人達の一面なりとも知る為の好著だと思う。
 
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