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2026年03月14日16:34

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「少年とハリス」

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ハリスとは、1858年に日米修好通商条約を江戸幕府と締結したタウンゼント・ハリス。
1854年に黒船でペリーがやって来て和親条約を、そしてその後ハリスがやってきて修好通商条約を結んだことは歴史の授業で習いましたが、実際問題、いきなりやって来てどうやって交渉したのだろう?言葉はどうしたのだろう?などと思っていました。

この本は、ハリスと、その家僕として仕えた貧乏侍の16歳の息子、滝蔵との交流を通して、その疑問に答えてくれます。
1856年7月、50歳のハリスはアメリカ全権として、オランダ生まれの若いアメリカ人ヒュースケンを通訳として連れてやって来る。
当時鎖国していた日本は、オランダとは細々と交渉を続けていたので、オランダ語の通詞(通訳)はいたのです。
なのでハリスは英語を話し、それをヒュースケンが蘭語に訳し、それを日本の通詞が日本語に訳するという状態。
ハリスは、前の和親条約を基に、日本側に通貨問題の是正、アメリカ人の居住権や領事の権利など色々と要求するのですが…
やはり、事は簡単には運ばなかったのですね。

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下田の玉泉寺に留め置かれたハリスはまず、江戸への出府を希望するのですが、それがいつまでたっても許されない。
ハリスの最終目的は日本と通商を結び、開国させることであったが、幕府はのらりくらりとあの手この手を使って延引策を使い、その目的を断念させようとしていたのです。
1年以上経ってようやくハリスの江戸出府が叶った時、駕籠や馬、大勢の侍が行列に連なり、総勢350人だったというのにも驚きました。

江戸での交渉も難渋を極めたが、その頃、阿片戦争が起きて支那がイギリスに屈服、そして江戸に更に米国の軍艦が来たことなどもあって、その翌年、ようやく条約調印が成立。
その後、ヒュースケンが攘夷の侍に殺害され、一人になったハリスは病気に倒れもしたが、公務の為に1862年まで日本に滞在。
その間ハリスの家僕として仕えた、肉親の愛に飢えた少年滝蔵と、生涯独身であったハリスとの暖かい交流の描き方には多少物足りない面もありますが、史実なら仕方ないか。
英語が達者になった村山滝蔵は、ハリスの後任となったプリュインにも仕え、その後アメリカに渡り、帰国して米国領事館などで活躍したそうです。

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