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2020年05月30日14:39

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「心の傷を癒すということ」安克昌

こないだ、NHKで柄本祐主演でドラマ化されていた。

阪神淡路大震災時に奔走した神経科医の、とても穏やかでつつましい記録である。
正義感に酔うところがまったくなく、自分の弱さを隠さない。
結論を急いだり決めつけたりしない。

被災直後の被災者には、踏み込んだケアよりも思いやる言葉をかけた方がいい。
生き残った者、被災を免れた者は「後ろめたさ」を持つものだ。その通りだと思う。
自分のせいじゃないことはわかっている、それでもなお「ああすれば助かったんじゃないか、自分の代わりに自分の何かのせいで」と考えるのをやめられないことは多くの人がわかっているはずだが、あなたのせいじゃないと届かない言葉を投げることがいかに多いか。

同じ体験をした者同士の語りの場の大事さ。じっと静かに堪えるのが日本の文化、という固定観念が遺族を苦しめる、表現しなければ越えられないのだ。
援助し過ぎると自立出来ないという決めつけ。被災者にとって援助は屈辱なのだ。なのに「感謝すべし」という暗黙の要請を感じ、立ち直れないという自責に苦しむ。
避難所に留まる人の、あせりとあきらめの中でただ事態の好転を受身で待たざるを得ない苦しみ。

「被害を受けていない者には理解出来ない」と言いながら、助けを拒絶しているわけではない、実は震えるほど理解して欲しいのだ。
また心的外傷を受けた者の孤独について「心的外傷を受けた人は葛藤に悩まされるのだから、闊達な人間関係をいとなむ心の余裕はない。苦痛に苛まれる人と心的外傷のない人との間には決定的な断絶」があり、【失った者に対する後悔の想念が家族とくいちがう】こともある。
だからこそ、ボランティアをはじめとする外部からきた「無傷の人」が寄り添うことは重要だ。
【傷ついた人にはあらゆる人が遠ざかっていくように見える】
まったくその通りだ。非常に共感する。

精神科医療について安は、「つらい体験は自ら語りたいと思わねばならず、語りたくないなら安心感を見いだせない治療を再検討すべき」だと、また「癒すのは医者ではない、いたわられ分かち合うことの積み重ねしかない」と書く。
また、「復興の祭りが醒めて欲しくない、終わった後の不安」も告白している。

そして、被災者、支援者の立場を絶対視しない。
「被災を特別な体験だと錯覚し外部の人間にはわからないという傲慢に陥ることがある」「自宅での生活に不自由がなくなったときに当事者性を失った」と感じたと自身を顧み、「被災者はマスコミの取材に応えることで、この体験が自分にとって何であるかを知りたかったのだ」と考え、そのうえで「そこまで考えた取材があったか、ただ物語を求めていなかったか」と、ジャーナリスムに疑問を投げ、被災者の苦しみ=カンセリングという短絡的な図式だけが残れば、何も学んでいないことになる、と書く。
僕らは何かを学んだか?
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