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2019年02月25日21:32

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読書日記Nо.1158(打って変わって、風流の世界に遊ぶ)

■辻原登・永田和宏・長谷川櫂「歌仙はすごい」2019年1月中公新書

副題は、“言葉がひらく「座」の世界”。

前回の読書日記が、トランプがなぜ米大統領選で勝利したかという硬派
のテーマだったので、今回は打って変わって、軟派な文芸の世界。

歌仙とは何か、については早速、惹句で紹介しますね。

“五・七・五の長句と七・七の短句を互い違いに組み合わせて詠み、三十六句
の連句で一巻を作る歌仙。この第一句(発句)が独立したのが俳句であり、
かの松尾芭蕉も歌仙こそが「座の文藝」である俳句の原点と考えていた。”

“本書は題材の見つけ方、季語の詠み込み方に始まり、時事的な話題の扱い方
など、俳句上達のヒント満載。作家、歌人、俳人の三人による言葉の競演/饗宴を
経て、感覚がみがかれていくさまを追体験する。“

本書をなぜ手に取ったかといえば、マイミクさんはもうご存知の、私が日本の
短詩型文学のファンであることと、本書の歌仙を巻いた、辻原登さん、
永田和宏さん、長谷川櫂さんのお三方は、馴染みの方々だったから。

今回の歌仙の宗匠は、俳人の長谷川櫂さんだが、歌仙とは何かについて、
本書で語っているので、その部分を全部紹介しますね。

“俳句や歌仙を「座の文芸」と呼ぶことがある。この「座の文芸」の正しい意味は、
複数の人が一堂に会して共同作業で俳句や歌仙を作るということではない。”

“歌仙の場合、参加する連衆が「私」を捨て去って、次々に別の人物を演じる。
そこに仮面をかぶったさまざまな人物、動植物、物体による祝祭の「宴」が
出現することをいうのだ。”

“日本人がヨーロッパから学んだ近代文芸が「私」に固執する文学であるなら、
連衆が「私」を捨てて別の人になりきる歌仙は(そして歌仙から生まれた俳句も)
その対極にある文学ということになるだろう。”

“ここで思い想像してみたい。もしも連衆が「私」を捨てず、終始「私」に固執
して付け句を詠みつづけたらどうなるか。自分の番がくるたびに「私」」という
薄暗い洞窟にこもって句を詠み続けたらどうなるか。”

“祝祭からはほど遠い三十六句の独白集が出来上がる。しばしばそれは陰々滅々
たるものになるだろう。歌仙が晴れの祝祭であるためにも、捌き手は「私」からの
逸脱を大いに煽るしかない。”

なんだか、プラトンの「饗宴」のような心地がしませんか。

今朝の新聞報道で、ドナルト・キーンさんの訃報を知ったが、キーンさんが
愛してやまない日本文学の華のひとつが、歌仙であることに、不思議な
セランディピティを感じたりしている自分がある(^^♪
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