照る日曇る日第1238回
漱石といえばやはりあの驚異的な構想をつ文学論や「彼岸過迄」「夢百夜」などの小説、ということになるが、小説以前に詩歌に情熱を燃やした人でもある。
本巻には俳句を中心に連句、俳体詩、短歌、新体詩が収録してあるが、圧倒的に多いのは俳句で、なんと生涯に亘って2560句を創作したようである。
その記念すべき第1作は、明治22年に子規を激励した「帰ろふと泣かずに笑へ時鳥」であるが、その後明治28年に、松山の漱石の下宿「愚陀仏庵」における子規主宰の句会が漱石の俳句熱に火を点じ、漱石はロンドン留学の前年の明治32年まで延べ35回も子規に句稿を送って、その指導と添削を受けている。
それらの句を、宗匠役の子規がどのように評価・採点し、どのように修正したかを辿ることは本書の楽しみの一つで、読み進むうちに、子規の評価軸や美意識、好き嫌いのありかがなんとなく分かってきて面白い。
なかには「なんでこれを採らないのか、なんで悪口をいうのか」と、漱石に気の毒になる採点もあるが、師範たる子規は絶対の自信を持っており、読者はその子規の指導に素直に従う漱石の、生真面目、真剣、素直さにいたく胸を衝かれるのである。
しかしながらそれら膨大な句作の大半は、「何事ぞ手向し花に狂ふ蝶」「菫程な小さき人に生まれたし」「仏性は白き桔梗にこそあらめ」「秋風の一人をふくや海の上」(この短冊を帰国した漱石はいきなり破り捨てたという)「「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」「秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」などの秀句を除くと、おおかたプレバト的な習作の域にとどまるのが残念だあ。
ちなみに彼の最後の句とおぼしき作品は、彼の没年である大正5年の「瓢箪は鳴るか鳴らぬか秋の風」である。我々が俳句に嗜むのはいつかある日の辞世の句を素早く遺すためであるが、この軽やかな句を漱石の辞世と考えれば、子規の壮絶な3句「いと「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」との違いが、歴然と浮かび上がってくるのである。
なお漱石の短歌は「高麗百済新羅の国を我行けば我行く方に秋の白雲」とか「あるは鬼、あるは仏となる身なり浮世の風の変るたんびに」などの凡々作をわずかに10首数えるのみで、この文豪にしてこの短歌かと思えば、その隙だらけの下手くそさが、いっそ好ましいようなものである。
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