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2023年08月21日12:40

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NHK「昭和の選択・選」〜『東条英機、開戦への煩悶』

8/16(水)NHK-BS放送「昭和の選択・選」『太平洋戦争 東條英機、開戦への煩悶』。
2020年12月の再放送。

東條英機(1884-1948) は、改めて言う迄もないが太平洋戦争開戦時の首相。戦後の東京裁判で死刑となった。
彼は何故無謀とも言えるアメリカとの戦争を選んだのか?
泥沼化する中国での戦争終結、資源獲得、アジア各国の欧米列強からの解放、果たしてそれがアメリカとの戦争の目的だったのか? 戦争でしか解決できない問題だったのか?
(結局戦争では一つも問題解決できなかった事は歴史が教えているのだが。)
番組は本当に開戦しか選択はなかったのか、東條の選択に迫る。

論者は下の通り。
・磯田道史 歴史学者(近世史)
国際日本文化研究センター准教授
主な著書『武士の家計簿』『日本史の内幕』
 
・萱野稔人 哲学者
津田塾大学教授。国家論から時事問題迄哲学を軸に幅広く論じる。
著書『リベラリズムの終わり』

・一ノ瀬俊也 歴史学者(近代史) 
埼玉大学教授。日本の近代史を軍事史・社会史から分析。
著書『東条英機』

・小谷賢 戦史研究家
日本大学教授。国家の情報・戦略から見た戦史研究のエキスパート。
著書『日本軍のインテリジェンス』

・杉浦友紀 NHKアナウンサー

本レポートは、番組の進展を解説するのでなく、興味を惹かれた論者の言葉を書き留めておく事に優先を置いた。
したがって、展開の道筋が記述だけでは見えない部分も出てくるだろうが、それはそれで良しとする。読者の知識で補って頂ける側面もあるだろうし。
順序は些かランダムになっているが、各論者の発言を、以下にピックアップする。

萱野稔人「東條は戦争を遂行した悪者のイメージになっている。歴史を見ると、本来、日本の国民もジャーナリズムも太平洋戦争をやれという声が強かった。戦争を支持していたにも関わらず、戦後になって、東條が全部悪いんじゃないか、と、彼に全部戦争の罪を負わせ、日本人自体、自己免罪した部分があると思う。もし私が東條の立場だったらどうしていたか、ここでしっかり考えてみたい。」

一ノ瀬俊也「東條は、日本が戦争に向ってしまった事も含めて、近代日本の矛盾を一人で背負わされてしまった人なのではないか。大陸への膨張政策、あるいは明治憲法体制の中での統合権力の不在、そういったツケを一人で結局持ったのではないか。ただ、それは東條自身が選んでそうなった事ではあるけれども。」

東條が首相になる迄の道程。

1936(昭和11)年、二・二六事件。天皇の逆鱗に触れ鎮圧されるが、これ以降、軍部の圧力が日本政治にのしかかる。
この時東條は満州にいて関東憲兵司令官だった。東條は皇道派と派閥争いをしていた統制派に属していた。反満抗日の活動家を検挙するだけでなく、二・二六事件に乗じ、満州の皇道派を数多く拘束。思想取締が憲兵の主たる仕事となった。関東軍で評価され関東軍参謀長に昇進。
1938(昭和13)年5月、帰朝、陸軍次官として迎えられる。
1940(昭和15)年7月、日中戦争の早期解決を期待された近衛文麿内閣で陸軍大臣として初入閣。
1941(昭和16)年7月、日本軍は資源を求めて南部仏印進駐。アメリカ大反発。中国からの撤兵要求と経済制裁、石油禁輸。
日本は石油の多くをアメリカに頼っていた。日本国内の石油備蓄は2年分しかなかった。
同年9/6、天皇臨席の御前会議で決定した国策。外交交渉により10月上旬迄に日本の要求が認められる目途が立たなければ直ちに開戦を決意する。
近衛や外交筋は交渉による解決を模索。
しかし、陸軍は中国駐兵に固執。閣内において陸軍大臣である東條はその要求を頑なに主張した。(*1)
ルーズベルトとの首脳会談に望みをかけていた近衛内閣は瓦解、総辞職。
次の内閣の最大課題は言う迄もなく戦争回避である。戦争に突き進もうとする陸軍を抑えられるのは東條しかいない、と、彼を陸軍大臣のまま首相指名する案が木戸内大臣から上がり、天皇に上奏、許可される。
同年10/17、東條、首相指名を受けて就任。陸軍大臣,内務大臣(警察,憲兵隊を管轄)を兼務する事となる。

(*1)
何故陸軍は中国駐兵に固執したか?
小谷賢「日中戦争は4年続いていた。既に20万人近い戦死者を出している。何の見返りもなくこのまま撤兵する事は、陸軍内からも国民からも、何のための戦争だったのかという批判が上がる。陸軍の存在意義が問われかねない。しかも、現場の司令官は、中国内では日本軍が優勢であるという認識を持っていた。関東軍司令官らはこのまま戦いを続け、武勲を立てて昇進したいと考え、本国の陸軍中枢は派遣軍を抑える事ができなかった。」
(元々、東條は派遣軍内部の人間で、首相としての使命に反し、戦争継続は彼自身の内的思惑であったろう。)

萱野「撤兵はまず世論が許さないだろうという認識が東條にあった。世論から陸軍を守る必要が自分にはあるという使命感が強かった。吠えない番犬には餌なんかやりたくないという圧力が強かった。しかし、彼は大臣として入閣したのである。陸軍を守りたいという気持は分らなくないが、政府の一員、内閣の一員として何をするかという視点が東條にないのは問題だ。更に彼は総理大臣になった、総理大臣としての役割期待を東條はどう考えたのか、その使命を彼は明確に描けなかったのだろう。」

首相となった東條は、天皇の本意を木戸内大臣から伝えられた。
『木戸日記』にこうある、
「九月六日ノ御前会議ノ決定ニトラハルル処ナク慎重ナル考究ヲ加フルコトヲ要ストノ思召(おぼしめし)」。
即ち10月上旬迄に交渉が成立しなければ直ちに開戦する、この決定を考え直せという事。つまり何とかして開戦回避をせよというのが天皇の本意だ。
首相の身としては、陸軍大臣時代のように無闇に開戦のみを主張する訳にいかなくなった。

国策を決定する場である「大本営政府連絡会議」、この場では延々とすれ違いの多い議論が続いた。
1941(昭和16)年11/1の連絡会議。もはやこれ以上引き延ばせない日程である。
その議事録に3つの提案が明記されている。

「第一案 戦争スルコトナク臥薪嘗胆(がしんしょうたん)ス
 第二案 直ニ開戦ヲ決意シ戦争ニヨリ解決ス
 第三案 戦争決意ノ下ニ作戦準備ト外交ヲ併行セシム
     外交ヲ成功セシムル様ニヤツテ見タイ」

東條はどの結論へと導くのか、その選択は?

小谷「東條はどうして自分が首相に選ばれたか、その理由が分かっていない筈がない。天皇からの命で戦争を回避、これは確実に理解している筈だ。しかし、第一案はアメリカの要求を全て受け容れる事、妥協、譲歩である。中国からの撤兵がマストの条件だから、陸軍は絶対に飲まない。陸軍を説得する事は困難だろうと東條はハナから思っている。」
萱野「ここで不幸だと思うのは、組閣に際し、東條は戦争回避のため、陸軍大臣も兼務しているし、内務大臣迄兼務した。にも関わらず、外から見ると、戦争準備をしているように見えてしまう。陸軍大臣と総理大臣が兼務、つまり陸軍と政府が一緒になったも同じ。更には戦争反対の世論を抑え込むために内務大臣にもなっている。さあ戦争だ!と外からは見えてしまう。戦争を回避するための組閣と、総力戦の組閣は全く変わらない。」
一ノ瀬「なるべく多くの人が乗れる案として第三案を出した。」
磯田「国外の事情は見ず、国内の事情だけでやると第三案になる。それが第三案の実態。これで数ヶ月は落ち着く、と。」
萱野「第二案は陸軍大臣としての立場での案。東條は総理大臣としてこの時何も決めていない。先送りしているだけだ。」

会議は第三案に決っした。
交渉期限は1ヶ月しかない。外交で進めるための条件も何もまとまらないまま、忽ち1ヶ月は過ぎ、そして12/8太平洋戦争は始まった。

磯田「日本人の負けパターン、これ迄の行きがかり依存、経路依存と経済学の制度用語では言うが、過去に拘って負けるケースが日本人は多い。
戦争している相手の中国は、極めて人口多く、何処迄も撤退する事のできる地理的特性を有す。いつ迄たっても勝敗はつかない。それと同時にアメリカという世界最強の国と更にぶつかろうとする。全く怖い話だ。
国策、つまり大きい絵は無茶苦茶。で、シンガポールに手を出すという事は、イギリスとも同時に戦うという事になる。
これは、国内の陸軍という飼っている犬が怖くて、外にいるライオンに向って鉄砲を放つような話だ。
冷静になって考えてみればそれは分る筈なのに、1年先とか、石油の話とか、狭い局面での解決だけ考えていると、こういう結論(対米開戦)が出てしまう。」
萱野「これを戦争回避の方向に舵を切るためにはどうしたら良かったのか、と考えた時、東條は天皇の意思(外交によって開戦を避ける)を使って欲しかったと思う。自分がその全て矢面に立って、自分の身を賭してこうした事をしているんだという姿勢を示しながら、天皇はこう言っている、それこそが日本の選択なんだと。その重みを世論に示して対峙する、そういう姿勢が欲しかった。」
磯田「その時、東條としては、2つの道具を持っていた筈。天皇と憲兵だ。これは天皇の意思であるから臥薪嘗胆しようと、天皇の権威を前面に押し立てて陸軍を抑えなけれぱいけなかった。それでも、反逆しようという人がいれば、そこでこそ憲兵を使うべきだ。あらゆる諜報力と軍警察の情報力で、開戦へ暴走しようとする危ない人達は捉まえなければいけない。
・・・あとでならなんでも言えるよという視聴者がいるかもしれないが、歴史や裁判所というのは、あとで検証するのが仕事であるから、これは我々絶対にやらなければいけない作業なのです。」

開戦後の東條を見てみよう。

当初は東南アジアに破竹の勢いで進軍した。マニラ、シンガポールを占領。
そして、国内の総力戦体制を作る事こそが戦争の行方を左右すると東條は考えた。
憲兵司令部本部長の加藤泊治郎に、反戦行為やスパイ活動に目を光らせるよう指示。

今年山口県の民家で発見された加藤泊治郎の遺品。その中に加藤の肉声を記録したレコードがあった。
1942(昭和17)年4/24、加藤のラジオ演説で、国民に長期戦下の思想防衛を殆ど脅迫によって訴えている。この内容は完璧に東條の考えそのものである。
「国家の総力を挙げて、国難に赴くの極致を発揮し、米英撃滅の一点に集中せねばならぬ今日、総理大臣が一億国民が一切を挙げて国に報い、国に殉ずるのは時は今でありますと申されたのもこの意と存ずるのであります。
4/18に国内に少しばかり敵機の襲来(*2)があったからといって悪質なる批判的言動をなすような事では駄目であります。
我が国はいよいよとなれば、日本全土が丸焼けになっても思想的に大磐石であると確信しますが、私ども憲兵の立場と致しましては、少しでも思想的より起こるる害を少なくしたいと考え、失礼ながら皆様方のこれらの点の関心を高めたいために他なりませぬ。
同時に憲兵と致しましては、国民各位が佐渡おけさを歌われようが安来節をやられようが、各自フンドシを締め、覚悟を決めての上での適度適当なる慰安行楽等には共に笑って楽しみも致しますが、悪質なる獅子身中の虫は発見次第憲兵司令部の命の下に、断乎処置するにやぶさかではありませぬ。ご協力をお願い致します。」

「日本全土が丸焼けになっても」戦争を続けるというのは一体どういう意味ただろうか? 東條は何のために戦争をしているのか?

戦局は悪化。開戦から1年余、1943(昭和18)年2月、南方の要衝ガダルカナル島を失う。
あくまで軍と政府の一体感を保とうと、1944(昭和19)年2月には、陸軍トップの参謀総長迄兼任する。(*3)
同年7月、サイパン島守備隊全滅。これにより日本本土はアメリカ軍の爆撃圏内に入った。
サイパン陥落の10日後、東條は全ての職を辞した。

(*2)
1942(昭和17)年4/18、いわゆる「ドーリットル空襲」。東京・名古屋・神戸等がアメリカ軍によって初めて空爆された日の6日後に、加藤のラジオ演説はあった。

小谷「この時日本軍は本格的に本土を爆撃され、来襲した全16機のうちの1機も撃墜できなかった。国民の見ている前で陸軍も海軍も失態を犯した。国民の軍に対する不満は高まった。東條もこの時現場にいて、危機感を持ち、加藤に何とかしろと命令したのだろう。」

(*3)
一ノ瀬「東條は何でも自分でやってしまう。他人に言うより自分でやった方が早い。現代でもそういう人はいる。戦争指導も自分でやった方が早いと。」
小谷「東條は権力を集中させるというよりは、別々に仕事をした。三役を兼ねていれば、統合して権力を集めればいいのに、東條はそれぞれの役柄を分けてやった。ルールにしばられる東條らしいと言えば東條らしい。」

一ノ瀬「明治憲法の定める権力の分散の中でやれる事をやった人ではなかろうか。ただ、元をただせば、何故こんな苦境に追い込まれているのかというと、もともと中国に対する強硬姿勢が、巡り巡ってツケとなって回ってきている。これは自業自得と言われてもしようがないのではないか。
今の組織でもいる、自分で何でも抱え込んでしまい、正論を一方的に叫んで、それに対し誰も逆らえない。
平時ならまだしも、有事のリーダーとしてはどうか。そういう事を我々は考えていくきっかけになるのではないか。」
小谷「今の我々にとっても、国とか組織の指導者をどう育てたり、選んでいくかは大変に重要な課題だと思う。この時の失敗から我々も学ばないといけない。」

萱野「先の戦争のイメージを大きく変える必要がある。例えば大臣が自分達の部門の利益しか追及せず、総理大臣がそれらをうまくまとめられなくて、統合権力もない。
一般的なファシズムや独裁国家というイメージとは違う形で我々は戦争に突入してしまった。
更に言えば、今でも解決しているのかという問題だ。たまたま状況がそれ程悲惨でないから大きな事は起きていないかもしれないが、今の政府を見ていても、状況を見極め問題をコントロールして前に進めていると思えない事がたくさんある。個々の組織、企業だとか大学だとか、どんな組織でもいいが、何か人間が主体的に決定し物事を進めていると思えない事が多い。で、状況が流され、どんどん選択肢が狭まってしまい、皆の意見を聞いて両論併記のまま物事が進んでいく。この問題に切り込まなければ、私達は本当に戦争の教訓を現代に活かしたという事になっていかないと思う。」

磯田「長い歴史を見ていく上で、教訓も含まれている、聴いていて辛い話ではあるが。
歴史上の人物を見ていたら、優秀な軍官僚の負けパターンがあるような気がする。
それは何かというと、前提条件が誤っているか怪しいという時、その大きな国の計画、大きい絵を、その誤った前提で描いてしまう。
例えば、石田三成も東條と同じような負け方をしている。関ヶ原の合戦も、徳川軍よりたくさん人数を集めて、山の上に並べて包囲したら勝てるという前提だが、実際には動かない軍がいっぱいいて前提が利かなかった。
一見頭が良くて論理的で優秀な人が考えるものというのは、いくら各個人に能力があったとしても、依って立つ前提が曖昧であるかどうか、曖昧な前提に立って国民全般の生死がかかるような決定はできないという事が重要で、私は、前提のチェック、これがあらゆる大きな計画を行う上で重要だと思った。」

杉浦友紀「日本人、人間が持っている凄く弱い欠陥みたいなところをえぐられる感じがする。でもそれに向き合わないと、この先、将来何が起こるか分からないという時代に対応できなくなるし、それをやはり歴史家はちゃんと歴史の失敗から学ばないといけないなと、改めて思った。」

 ディレクター 奥村浩
 
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