mixiユーザー(id:21258650)

2017年04月03日19:02

1248 view

猪木とビンス(417)

85年新春黄金シリーズ開幕戦(1月1日後楽園ホール)から新しい試みが為され、WWFにヒントを得たか、リング上にマイクボックスが吊られ、選手コールの時にそれが下に降りて来て、田中秀和リングアナウンサーがマイクを取り出してコールする仕組みでファンを楽しませています。

私はこの興行は生観戦しています。ちなみに翌日2日から4日まで長州力以下ジャパンプロレス勢がシリーズ参戦する全日本プロレスの「激突!オールスター・ウォーズ」後楽園3連戦も観に行っており4日連続後楽園に通いました。

メインイベントは84年11月16日、川崎市体育館での第5回MSGタッグ・リーグ戦公式戦の再戦となる猪木、藤波組vsハルク・ホーガン、ワイルド・サモアン組。

またホーガンが流血して途中帰国してしまうのでは?とヒヤヒヤものでしたがそれはなく、試合中に2人からこの時に突然4人に増殖したストロング・マシンズが乱入しノーコンテストとなっています。

マシンズは暫定的に3号と4号が増えました。マシン1号は平田淳二(淳嗣)、2号が力抜山というのは当時大方のファンは知っていましたが、3号と4号はどちらが3号でどちらが4号かと言う見分け方も含めて謎が多かったです。

その後、長身で細身、肌の色が日本人に近いのが3号で正体は元国際プロレスで在米フリーのヤス・フジイ(藤井康行)、3号より背が低く、ずんぐりとした体型の4号は猪木vsレフトフック・デイトンの格闘技戦(79年4月3日、福岡スポーツセンター)のレフェリーを務めたジョージ土門の実弟で、ハワイ在住の日系人レスラー、ヒロ佐々木というのが定説になっています。

ただし、試合に出ることが少ない4号はその時々で中身の人物が代わっている説もあります。

新日本は84年6月からハワイのリア・メイビア未亡人と提携しており、3号の藤井はマネージャーのショーグンKYワカマツもしくは吉原功顧問ルート、4号はハワイルートかと思います。

いずれにしてもそんなに大した選手ではありませんでした。フジイは78年4月8日、ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムに藤波が遠征しに来た時(エル・ゴリアスに勝ちWWWFジュニア・ヘビー級王座を防衛)に、ロス地区でドクター・ヒロ・オオタのリングネームで試合をしており、試合中にインターフェアを行ってテレビ朝日の画面に登場していますが新日本に呼ばれることはなかったです。

あるいは売り込みをかけたけど声がかからなかったかも知れません。79年11月に古巣国際プロレスに外国人側としてフリー参戦しましたが、試合はしょっぱかったです。

そのマシンズ1&2号はセミファイナルに出場、坂口、木村健吾組と対戦し1号がマシン・ラリアットから木村健を体固め。

セミ前はシリーズ最終戦の2月6日、大阪府立体育会館で行われるWWFジュニア・ヘビー級選手権試合の前哨戦、ザ・コブラ、星野勘太郎組vs上田馬之助、ヒロ斉藤組の金髪ヒール日本人コンビの対戦。

上田は出戻りとあってポジションが下がったか、全日本移籍前には連戦連勝だった星野からフォールは取れず、コブラとH斉藤が両者リングアウトとなりました。

この3試合と前84年12月28日、ニューヨークMSGで行われた猪木vsデビット・シュルツ、コブラvsブラック・タイガーのWWFジュニア・ヘビー級王座決定戦が1月4日、金曜日の午後7時30分より90分枠で「新春プロレススペシャル」として放送されました。

新春プロレススペシャルは79年から連続して放送されましたがこの年を最後に特番はなくなりました。

この他、タイガー戸口は前年暮れの第5回MSGタッグ・リーグ戦でチームを作って参戦したケリー・ブラウンとシングルで対戦しショルダー・バスターから体固め。

Bタイガーと11年1か月ぶりに日本に登場したデーブ・モーガンはタッグを組み、若手の小杉俊二、山田恵一組と対戦。Bタイガーが山田を暗闇脳天(旋回式ツームストン・パイルドライバー)で破っています。

86年に山田がイギリスに遠征した時に、Bタイガーは日本で世話になったお礼として、フライング・フジ・ヤマダのリングネームで修行に励む山田のライバルとして立ちはだかり、試合を通してメインイベンターへと引き上げています。
10 5

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年04月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30